PSDについて (補足)

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ここでは、PSDに関連する補足的な話題を、memoがてら書いていきます。

PSDの表現単純化

Plato起源の「全知全能 (志向/近接) 教」

PSDについて、「誰にでも分かる端的な表現」も用意しておきたいということで、色々検討した結果、

  • Plato起源の「全知全能 (志向/近接) 教」

というのが、一番分かりやすい表現かなと思います。


歴史的経緯についての掘り下げ

「子作り/子育て/個体数管理」の必要性

PSDの解説」でも、「PSDの要約解説」でも述べた通り、「近代における人間社会についての思想/communication」は、

  • 17世紀〜18世紀 (近代前期)「究極目的欠落 (個人主義化)」
  • 19世紀〜20世紀 (近代後期)「脱思想化 (脱宗教化/脱目的論化/空洞化)」

という「2段階の屈折」を抱えており、それをPSDによって矯正/修正しなくてはなりません。


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では、こうした「2段階の屈折」は、なぜそもそも生じてしまったのか、その背景にある「思想的/認識的な欠陥/欠落」は何なのか、そうしたことについて、ここでは述べておきたいと思います。


第1に、

  • 17世紀〜18世紀 (近代前期)「個人主義化」

に関して言えば、

  • 「子作り/子育て/個体数管理」に対する認識/意識

が、完全に欠落していると言えるでしょう。


「放っておけば、野生動物のように勝手に繁殖する」とでも、考えてるかのように、全くと言っていいほど、この点に関して認識/意識が希薄です。

Platoは明確に意識/言及していたのにも関わらず。


Platoでなくても、まともな思考ができる人間であれば、少し考えれば、

  • 個人主義化 → 子作り/子育ての忌避 → 社会崩壊

という当たり前の図式は、誰でも即座に思い至ると思いますが、残念ながら、この「個人主義化」の流れに、思考停止して適応しているだけの、人文社会系の学者/言論人の多くは、こんな基本的な認識/意識すら欠落してしまっていますし、酷い人の場合、「社会/人類なんて、滅びるなら滅びればいい」とまで言う始末です。


「哲学」の「半宗教/理知的宗教」としての性格

第2に、

  • 19世紀〜20世紀 (近代後期)「脱思想化 (脱宗教化/脱目的論化/空洞化)」

に関して言えば、

  • 「そもそも (Italy半島/Plato起源の) 哲学 (倫理学/政治学) というものは、(「慣習的神話/宗教」を「矯正/修正/上書き」するための)「半宗教/理知的宗教」としての性格が強く、人間社会/共同体もまた、そうした宗教性 (集団的目的論) があってはじめて支えられる (そして、それが持続的/発展的/究極的なものであるためにこそ、「理知的」でなくてはならない) という考え方が、当たり前だった」という認識/意識

が、完全に欠落していると言えるでしょう。


その結果、この「脱思想化/脱宗教化/脱目的論化/空洞化」流れの中で、人間社会/共同体を語る上で最も重要な、「宗教性 (集団的目的論)」語ることができない、自らがdonutのように「空洞化」した人文社会系の学者/言論人量産されてきたし、その「空虚さ」ゆえに、彼らは現実の社会/共同体に対して、何ら有効な言説/成果を生み出すことができないまま、空回りし続けることになる訳です。


そんな空虚な学者/言論人の中には、己の空虚さ埋めるために、「芸術」に走ったり、仏教/Christianityといった「古典宗教」に走ったり、「利己心/私利私欲/個人的こだわり」に走ったり、「mad scientist」的な方向に走ったりする人がいます。

(また一般人も、己の空虚さ埋めるために、「金儲け」に走ったり、「放埒/蕩尽」に走ったり、「subculture」に走ったり、「cult/occult」に走ったりするのが、お決まりのpatternsだったりします。)


人間にとっての「情報秩序」の3基準

「物理的真」と「目的論 (多/一)」と「暫定的社会状態 (常識/慣習/規範)」

人間には、「情報秩序」を形成するための、3つの基準があります。


第1に、

  • 「物理的な真(偽)」 --- 自然科学/客観的/共通的

であり、第2に、

  • 「目的 (欲望)」 --- 主観的/個別的 (個人的-集団的)/流動的 - 共通的/不変的/普遍的/究極的

であり、第3に、

  • 「常識/慣習/規範/規則」 --- 主観的/個別的 (集団的)/流動的

です。


②は基本的に個別的/流動的で多様なものですが、抽象化すれば、人類にとって共通的/不変的/普遍的/究極的なものを、見出すことができると主張したのがPlatoであり、PSDその系譜に属しています。


3者の関係を図示すると、下図のようになります。

そして、PSDは、「②の王者」であることを自ら示しつつ、①と③を繋げて統合していくのが、その役割となります。

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これは、学問的/産業的に言えば、「自然科学 (理系)」的領域と、「人文社会科学 (文系)」的領域を、正当/正統につなぐことができるのは、PSDだけだということでもあります。

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「泣き寝入り地獄」と「噛み付き地獄」の乗り越え

人間社会というものは、家族、学校、企業、地域、政治など、様々な領域/集団において、

  • (抑圧的な)「泣き寝入り地獄」

に陥るか、

  • (混乱的な)「噛み付き地獄」

に陥るか、といった状態になりがちです。


そして、そんな「2つの地獄」を (適正/正当に) 乗り越えるためには、

  • 「大きな目的/究極目的」の下に移行/団結させる

という方法/手段しか無い訳です。


これが、「2つの地獄」乗り越えることができる、唯一の方法/手段です。

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人間の「自己意識」の3種類

「目的型」「規範型」「親密(自己中心)型」

前項と重複する内容ですが、ついでに書いておくと、人間「自己意識」形態は、大きく分けて、

  • ◾️「理」型
    • 目的型 --- 「(究極)目的」に向かう形で律せられているが、その反面、「現前/個別の人々/事柄」が軽視されやすい。
    • 規範型 --- 独断や常識/伝統/慣習などによる「規範/規則」によって律せられているが、「修正」をするための「目的/方向性」を欠いているため、時間の経過と共に「形骸化/崩壊」に陥ることになる。
  • ◾️「情」型
    • 親密(自己中心)型 --- 「自己中心的な情」として成り立っており、集団的には素朴な「親密さ/仲間意識」として成り立っている。「目的」「規範」に基づく「理」を欠いているため、「柔軟性/包摂性」はあるが、「何でもあり」「気まぐれ」的な「脱線/堕落/抑圧」に陥りやすい。

3種類に分けられます。

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上記した通り、これら3種類は、それぞれ長所/短所を抱えているため、

  • 「❶ 目的型で、❷ 規範型や❸ 親密(自己中心)型包み込む

といった複合型/hybrid型にすることで、各々の短所を抹消する形にするのが、望ましいと言えます。

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人間の「精神」の3部分

「3部分」と「17営為」

Plato (プラトン)「魂の三部分説」下敷きに、人間「精神の構造」と、様々な「営為」との関係性について、述べておきたいと思います。


Plato (プラトン)「魂の三部分説」は、

  • 理知 (logos)
  • 気概 (thymos)
  • 欲望 (epithymia)

3つで構成され、二頭立ての馬車の喩えでは、

  • 理知 (logos) - 御者
  • 気概 (thymos) - 右の馬
  • 欲望 (epithymia) - 左の馬

と表現されます。


そして、この区分に、三大脳内物質を大まかに対応させると、

  • 理知 (logos) - 御者 - Serotonin (安定/鎮静)
  • 気概 (thymos) - 右の馬 - Noradrenaline (興奮/怒り)
  • 欲望 (epithymia) - 左の馬 - Dopamine (快楽/歓喜)

といった具合になります。

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そして、この区分に、人間17種類の主たる営為 (営み)割り振ると、

  • (中間(気理))
    • 枠(序/規)F 🔺
    • 権P 🫵
  • 気概 (thymos) - 右の馬 - Noradrenaline (興奮/怒り)
    • 動M 🏃‍♂️ - 運動
    • 戦(競)B 🗡️
  • (中間(気欲))
    • 新N 🆕 - 新規性
    • 激S 💥 - 刺激/過激
    • 集C 👨‍👨‍👧‍👦 - 集団性/集団活動
    • 遊P 🎮 - 遊び/game(gamification)
  • 欲望 (epithymia) - 左の馬 - Dopamine (快楽/歓喜)
    • 金M 💰💸
    • 性S ❤️
    • 楽A 😆
    • 食F 🥘
    • 酒(幻/薬)D 🍶
  • (中間(欲理))
    • 創C 🎨 - 創作
    • 触S 🤝 - 接触
  • 理知 (logos) - 御者 - Serotonin (安定/鎮静)
    • 眠(瞑)H 🧘 - 睡眠/催眠/瞑想/緩和/癒し類
    • 目P 👁️ - 究極目的に繋がる知的/高度的/統合的/美的/崇高的な意識/活動

といった具合になります。

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こうしたことを押さえておいてもらうと、人間の行動原理やpatternsが、よく分かるようになると思います。

「PSD的思想」(究極目的) の必要性 (補)

「PSD的思想」(究極目的) から隔絶した人間のpatterns

「PSD的思想」(究極目的) から隔絶/断絶してしまった人間が、どのように頽落していくことになるかについては、Platoが『Politeia』の中でも描いていますが、ここでもそうした話を述べておきたいと思います。


Platoの図式で言えば、「PSD的思想」(究極目的) から離れてしまった人は、

  • 「名誉/勝利」という「軍人 (武士)」的な欲望に執着したり、
  • 「金儲け」という「商人」的な欲望に執着したり、
  • 「自由/放縦」という見境の無い/無分別な (民主的) 欲望に執着したり、
  • 「支配」という僭主独裁制的欲望に執着しながら、
  • (あるいは、「詩(創作)の世界」に熱狂/執着しながら)

「自業自得」「類は友を呼ぶ」式に、頽落的/自滅的な生を送ることになるのであり、彼らはその軌道修正の効かなさから、迷走/滅亡することが約束されています。


逆に言えば、「PSD的思想」(究極目的)共有した「同志的共同体」のみが、「存続/発展の道」進み続けていくことが、可能になる訳です。


この基本的図式は、Platoの時代も、現在も、将来も、変わることがありません。


「PSD的思想」(究極目的) 無しの人生について

こうした話を、現代に置き換えてみましょう。


「2段階の屈折」と表現してきた歴史的経緯により、現代人のほとんどは、「PSD的思想」(究極目的)備えていません


その結果、既述の通り、人々は、

  • 金儲け
  • 放埒/蕩尽
  • 人権/個人主義/多様性
  • 権力
  • subculture/cult/occult
  • 伝統/民族

といったものに場当たり的に執着しながら生きていくことを、余儀無くされています。


しかも彼らは、「PSD的思想」(究極目的)備えていないがゆえに、「軌道修正」「連帯/団結/結束」「継承」「個別性/特殊性/こだわりの乗り越え」といったことを行う能力も、備えていないので、何をやったところで、仮に一時的に隆盛/繁栄できたところで、

  • 「環境変化/無常の波」に飲み込まれたり、「個人の死」によって、衰亡/終焉し、忘却されていくこと

が、確定しています。

(子供に財産を残したところで、その子供が「PSD的思想」(究極目的)備えていないのであれば、どういうことになるのかは、上記した通りで、想像がつくと思います。)


また、こうした「PSD的思想」(究極目的)備えていない人々は、「一時的/限定的な目的」の下での、家族的/地域的/商業的/政治的/宗教的な共同体「不合理な抑圧」に苦しめられたり、そこから免れるために「打算的/拝金的/軽薄/表層的な人間関係」に走ってみたり、そんなところをウロウロ行ったり来たりしながら、人生を終えることが、宿命付けられています。


そのことに無自覚なまま生きて死んでいく人は、それはそれで可哀想ですが、自覚できるだけの「賢さ」を持った人は、先が読めてしまう分、「虚しくてしょうがない生」を、送ることになるでしょう。

これが、「PSD的思想」(究極目的)欠落した人たちが、行き着くことになる人生です。


「他の思潮」について

「分散主義」と「余の体質」と「商業活動 (Content産業)」

既述の通り、近代における「2段階の屈折」影響で、特に19世紀後半以降「分散主義」的な流れが、1つの大きな流れとして形成されました。

そしてこれは、近代思想の元々の源流である「個人主義」や、そこから派生した別の流れである「自由民主主義」とも、相性が良いものです。


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更にそれは、「体質」の話で言えば、「余」に相当するものだと言えます。


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そして、この種の「分散主義」「余」は、その

  • 「とりとめも無く、まとまり/体系性/整合性/一貫性も無く、場当たり的に情報を生成し続ける」

というその性格ゆえに、「商業活動」、とりわけ「Content産業」と、相性が良いと言えます。


したがって、PSDの立場としては、そうしたものをむやみに否定せず、「存分に活用/乗りこなし」しつつ、

  • 「情報の海/森」の中で混乱/迷走して途方に暮れている

ような人々/集団/社会を見つけたら、

  • PSDへと誘導/牽引していって、認知的に安定してもらう

といった姿勢/態度を採るのが、望ましいと言えるでしょう。


近代における「社会思想」の種類と関係性

ついでに、近代における「社会思想」種類関係性を、ここに大まかにまとめておきたいと思います。


ここまでの説明では、分かり易いように、

  • 1. 上部構造論 (思想)
    • 1-1. (漠然)集団主義
    • 1-2. (素朴)個人主義
  • 2. 下部構造論 (system分析論)

という分類に留めていましたが、正確にはここに更に2つ、経済思想でおなじみの「放任主義」と、PSDも含む「発展主義」を、付け加えることができます。

  • 1. 上部構造論 (思想)
    • 1-1. (漠然)集団主義
    • 1-2. (素朴)個人主義
    • 1-3. (漠然)放任主義
    • 1-4. 発展主義
  • 2. 下部構造論 (system分析論)


さらに厳密に言えば、この「発展主義」も、「究極目的 (全知全能)」を見据えた、Plato/Aristotle/Hegelの系譜を引き継ぐ「(正統)発展主義」と、「究極目的 (全知全能)」を見据えて(踏まえて)いない「(漠然)発展主義」に、分けられます。(後者は、国連のSDGsや、ただ目先の経済成長/技術発展を追求するだけの発展主義が、それに当たります。)


また、「(漠然)集団主義」も、「(右翼/伝統型)集団主義」「(左翼/平等型)集団主義」と、そのどちらでもない「(中間的共同体型)集団主義」に分かれます。(最後のは、左右hybrid型として、保守主義/民主主義的な共同体が様々に主張されてきましたが、決定打はありません。そして、そうであるがゆえに、社会不安が高まると、左右へ引っ張ろうとする力が強くなり、往々にして負けがちです。)


また、「(素朴)個人主義」も、その実現を巡って、「(左翼/平等型)集団主義 (統制主義)」【政治権力】結託した「((左翼/左派/統制/管理型)個人主義)」と、(漠然)放任主義【商業権力】結託した「((放任主義型)個人主義)」と、そのどちらでもない「((分散主義型)個人主義)」に分かれます。(最後のは、無政府主義とか、internetのような分散networkとか、そういうものに希望を見出すtypeの思想ですね。)


  • 1. 上部構造論 (思想)
    • 1-1. (漠然)集団主義 (統制主義)
      • 1-1-1. (右翼/伝統型)集団主義 (統制主義)
      • 1-1-2. (左翼/平等型)集団主義 (統制主義)
      • 1-1-3. (中間的共同体型)集団主義
    • 1-2. (素朴)個人主義
      • 1-2-1. ((左翼/左派/統制/管理型)個人主義)
      • 1-2-2. ((放任主義型)個人主義)
      • 1-2-3. ((分散主義型)個人主義)
    • 1-3. (漠然)放任主義
    • 1-4. 発展主義
      • 1-4-1. (正統)発展主義
      • 1-4-2. (漠然)発展主義
  • 2. 下部構造論 (system分析論)


そして、これらの関係を、主要な論者と共に図示すると、下図のようになります。

Thoughts.png


そしてこれを、おなじみの左右図式で表現すると、下図のようになります。

Thoughts2.png


ただし、その次の項目でも指摘しているように、またPlato(プラトン)/Aristotle(アリストテレス)も指摘してきたように、理念はどうであれ、実態としては、集団主義 (統制主義(→全体主義))左右中問わずひとまとまりになって行き、そこに民主主義/自由主義/個人主義が対峙する形で、

  • 「少数金持ちと多数貧乏人の引っ張り合い」

構図に、収斂していくことになります。

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そして、究極目的を見据えた真正の発展主義は、そうした「不毛な対立/循環運動」横目に見つつ、先に (上に) 進んでいくことになります。

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「認知」と「実践」の基本patterns

「上昇」の2段階と「下降」の3段階

日本の文化に関する取り組み」や「拡張神道」等のpagesでも言及しているように、世界3大哲学 (三哲) としてのGreece/India/China哲学、特にその中でも中心的な思潮であるPlatonism/Buddhism/Confucianism3つは、内容的に深く連関しています。


そして、そんな三者思想歴史には、共通して、人間個人/集団としての、「認知」と「実践」にまつわる基本patternsが、反映されています。


ここでは、そんな基本patternsを、

  • 「上昇」の2段階「下降」の3段階

として、まとめておきたいと思います。

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ここで言う「上昇」「下降」は、元々はPlato (プラトン) が用いた表現でもある訳ですが、

  • 「上昇」が、認知的な成熟「普遍的・究極的なもの」への到達
  • 「下降」が、社会実践/他者善導救済のための帰還

という意味であり、基本的には前者「上昇」2段階後者「下降」3段階に分かれます。


まず、「上昇」2段階は、

  • 超越/根源
  • 現象

から成ります。


①の現象 (物理現象)熟達する営みは、自然学 (自然哲学) とも重複するものではありますが、人間の精神は、「ただそれだけ」では満足しません

とりあえずの仮想的なものであったとしても、「現象の背後」にある「世界の存在性」そのもの直結した、普遍的/究極的と感じられるような ② 超越/根源を想定して、そことつながることで、人の精神は、とりあえず一定の安定/安寧/充足を、獲得します。

この ② 超越/根源には、善のidea/Demiourgos最高善/不動の動者Brahman/Nirvana天/アメノミナカヌシなど、思想家/集団/地域ごとに様々な呼び名が与えられます。

(また、そこからの「俯瞰的な視座」は、俗に「神の視座」「仏の視座」と呼ばれたりします。)


こうして「上昇」を上がって、そこで満足して人生を終えてしまう人々も多いですが、三哲に代表される古来の哲学/宗教観点で言えば、そこで終わってしまうのは小者です。

より優れた者たちは、ここでのvision/充足感保持しつつ、他者の救済のために、世俗社会へと帰還する下降の道へと向かいます。


そんな「下降」3段階は、

  • 助言 (消極的利他)【小乗】
  • 慈善 (積極的利他)【大乗】
  • 競争 (社会主導権奪取)【金剛乗】

から成ります。


助言は、あまり世俗社会に対して深く関与しない立場から、思想/実践の助言を行う「消極的利他」の立場。

慈善は、福祉/災害復興支援などを中心に慈善活動を行う「積極的利他」の立場。


しかし、こうした「綺麗事」「お堅さ」「無難さ/当たり障り無さ」「お行儀の良さ」「萎縮した思考/振る舞い」の中でだけ生きている個人/集団は、自ずと行動(活動)範囲も、社会的影響力も、限られてしまいますし、様々な社会勢力との争い/競争になると、必ず劣勢/負け組になってしまうことになります。


(ここに「富裕化」なども加わると、ますますそのような (萎縮化/消極化の) 性格強化されることになります。こうした「道徳化/富裕化 (貴族化) の罠」こそは、人間/社会が衰退する主要な原因の1つとなるので、最大限に警戒しなくてはなりません。

人間は、個人としても、社会としても、「(上下/内外の)格差を埋める」ことを動機付け/駆動源として動く/努力するので、その「格差 (物足りなさ)」は常に設定/意識されていなくてはなりません。)


そうした限界痛感するに至った場合、人は「究極目的堅持/護持し」つつ、「世俗社会雑事にまみれ、にまみれ、汚れ役/嫌われ役/矢面役/俗物役を担いながらも、泥臭く貪欲に、各種の社会的勢力争い勝利していく、成果を出していく」というを、選ぶことになります。

それが ❸ 競争です。


(この❸の段階になると、「究極目的」とつながった「聖なる自分」と、世俗社会にまみれる実践的分身である「俗なる自分」の、二段構えがハッキリすることになります。❶❷の段階では、両者は未分化です。

この二段構え (Dualism) は、symbolとしては、

  • 儒教 (朱子学) でもおなじみの、「陰陽」
  • 仏教でおなじみの、「泥の上に咲く蓮」

等に喩えることができますし、下図のように単純化/図形化して表現することができます。)

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(このように、「聖と俗の二段構え/往還運動」としてのDualismは、三哲の中の仏教儒教にも見出すことができる訳ですが、Platonismの場合はそれは「Politeia」として表されますし、他にも「体質」の話題で出てきた「CHOK-WA」も、nuanceは異なりますが、二段構えを表現したものだと言えます。)

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こうした「上昇」の2段階「下降」の3段階についても、知っておいてもらうと実践の役に立つでしょう。

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「究極目的」に由来する「興味/関心/欲望」のLighting (照明)

我々人間は、「興味/関心/欲望」の対象にしか、意識を向けて上手く関わることができません。こうした事態は、「興味/関心/欲望」が対象に「光/照明を当てている」様に、喩えることができるでしょう。

また、内面にしっかりとした (普遍性/究極性とつながった) 「思想/倫理の型」を持っていないと、我々人間は、場当たり的に様々な「興味/関心/欲望」に引っ張られる/引っ掻き回されるはめになったり、行き詰まったり袋小路に入り込むはめになっててしまいます。

あるいは、世の中に対する「興味/関心/欲望」(光) 自体失って無気力/無関心に陥ってしまうことだってあり得ます。


では、どうすれば、光/照明を適切に用いながら、道を踏み外さずに、正しい道を進み続けることができるでしょうか?

それは、

  • (究極的「興味/関心/欲望」の対象である) 「究極目的」発する光、そこへとつながる/至る光に、照らされた対象のみに、意識を向け、「興味/関心/欲望」を持つように、訓練する/習慣付ける

ことです。


これは既に古代のPlatonismや仏教でも語られてきたことです。

「究極目的」は、Platonismでは「善のidea」、仏教では「Nirvana」ですが、これらはたいてい太陽のような「光/光源」のimageで語られますし、それによって照らし出されるもの、そこへとつながる/至るものにのみ「興味/関心/欲望」を持つように指導されます。


こうした究極目的light(ing) にまつわる普遍的な実践の型も、併せて覚えておいてもらうと良いでしょう。

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