PSDについて (要約)
ここでは、長大になってしまったPSDの説明の中から、要点だけをまとめて、PSDの要約解説をしています。
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PSDの要約解説
「人間社会についての議論」の構成
まず、当然のことながら、「人間社会についての議論/communication」というものは、Marxism (マルクス主義) 風に表現すれば、
- 1. 上部構造論 --- 思想 (主観的)
- 2. 下部構造論 --- system分析論 (客観的/物理的)
という2つの側面 (両面) から、approachする必要があります。
更に、前者の1. 上部構造に関しては、
- 1-1. 集団主義(的目的論) --- 社会/共同体の維持/発展の保全
- 1-2. 個人主義(的目的論) --- 個人の自由/平等/権益の保全
という2つの側面 (両面) から、approachする必要があります。
まとめると、以下のようになります。
- 1. 上部構造論 --- 思想 (主観的)
- 1-1. 集団主義(的目的論) --- 社会/共同体の維持/発展の保全
- 1-2. 個人主義(的目的論) --- 個人の自由/平等/権益の保全
- 2. 下部構造論 --- system分析論 (客観的/物理的)
「近世/近代」における「集団主義(的目的論)」の欠落
これらの中で、唯一「社会/共同体の維持/発展のための結束/協働」を人々に説得/促進できる力を持っているのは、言うまでもなく、1-1の「集団主義(的目的論)」だけです。
要するに、「社会/共同体の存亡」というものは、この1-1の「集団主義(的目的論)」((の核となる究極目的) の有無や内容) に掛かっていると言っても、過言では無い訳です。
しかしながら、この最重要なはずの1-1の「集団主義(的目的論)」(の核となる究極目的) は、これまでの17世紀から現在に至るまでの近代社会思想においては、ほとんど省みられて来ませんでした。
17世紀〜18世紀の「近代前期」においては、1-2の「個人主義(的目的論)」(としての「自然権/人権」) ばかりが主張され、1-1の「集団主義(的目的論)」(としての「自然法/一般意志/道徳法則」) は、せいぜいが「平和」「公平性」を主張する程度の、1-2の「個人主義(的目的論)」を擁護/補助するものとして、それに従属/一体化させられることになりました。
つまりは、実質的に1-2の「個人主義(的目的論)」のみがあるという状態に陥ることになりました。
続いて、19世紀〜20世紀の「近代後期」になると、Marxism (マルクス主義)、経済学、社会学といった2の「下部構造論」が主流となり、1-1の「集団主義(的目的論)」は、まともに形成/用意/再構築されないまま、今日に至っています。
こうした歴史的経緯を、分かりやすくまとめると、
- 17世紀〜18世紀 (近代前期) の「究極目的欠落 (個人主義化)」
- 19世紀〜20世紀 (近代後期) の「脱宗教化 (脱目的論化/空洞化)」
という「2段階の屈折」として、表現することができます。
そして、その結果、今日のように社会性/共同体性の再生/回復や、皆で子作り/子育て/教育して個体数を管理していかなければならないような段階になっても、それができず、
- 「ただ流されるままに社会/共同体が崩壊していくのを、見ていることしかできない」
という先進諸国の悲惨な光景が、広がる原因となってしまっている訳です。
「集団主義(的目的論)」の欠落の原因
では、この「社会/共同体の存亡」にとって決定的に重要である1-1の「集団主義(的目的論)」が、なぜ17世紀から現在に至るまで、ちゃんとまともに形成/再構築されてこなかったのでしょうか?
理由/原因はいくつかあって複合的でしょうが、主なものとしては、
- 「個人主義 (個人の権益) の確保」を優先した。(特に17世紀〜18世紀)
- 「Christianity (キリスト教) の教会勢力の教義/世界観」と干渉/衝突し、社会的に攻撃されることを懸念した。(特に17世紀〜18世紀)
- 「国家間の抗争/戦争/覇権争い」に忙殺されて、それどころではなかった。
- 「社会慣習や愛国主義」で、何となくやれてこれてしまった。
- 単に、思いつかなかった。
といったものを、挙げることができるでしょう。
いずれにしましても、もはや先進諸国を中心に、特に少子化や文化衝突といった形で、従来的な何となくの国家運営が困難になって来ており、本格的に1-1の「集団主義(的目的論)」を形成/回復/再構築しなければならない段階に来ています。
そこで、2度とこうした1-1の「集団主義(的目的論)」を巡っての欠落や混乱が生じないように、全人類にとって受容可能な、公平/公正/正当/正統/普遍的/究極的な形で、それを形成/回復/再構築したのが、このPSDである、ということになります。
「集団主義(的目的論)」の歴史的材料
この1-1の「集団主義(的目的論)」の歴史的材料としては、
- Plato (プラトン) の「善のidea」
- Aristotle (アリストテレス) の「最高善」
- Hegel (ヘーゲル) の「絶対知」
等が、あります。共通しているのは、「究極的な知」という発想です。
すなわち、
- 「地球上の「最高等知的活動体」として、生まれ落ちてしまった我々人類は、「究極的な知」を求める以外に、真の意味で「充足/幸福」を味わうことは無い」
という発想が、ここにはあります。
ただし、Plato (プラトン) やAristotle (アリストテレス) は、当時の宗教勢力への配慮や、政治的効果を考えて、こうした発想/概念を、「Demiurgos (デミウルゴス)」や「不動の動者」といった「神概念」と結びつけながら、説明しました。
しかしこれが、歴史的に言えば、結果として「悪手」となりました。Christianity (キリスト教) に吸収される (乗っ取られる) ことになってしまったからです。
そして、上記したように、「Christianity (キリスト教) の呪縛」からの脱出を模索した近代社会思想が形成される過程で、1-1の「集団主義(的目的論)」が、ごっそり抜け落ちることになってしまいました。
この問題に自覚的で、修正を図ろうとしたのがHegel (ヘーゲル) ですが、その意図を理解できる者がおらず、19世紀後半以降、Marx (マルクス) 等による2の「下部構造論」や、1-2の「個人主義(的目的論)」、あるいは素朴な民族主義/愛国主義などに、分岐していくことになりました。
したがって、2度とこうした迷走/混乱が生じてしまわないように、今後は可能な限り「平易な表現」を用いて、「人類主体」で表現することが重要です。
「集団主義(的目的論)」の今日的形態
それでは、可能な限り「平易な表現」で、上記したPlato (プラトン)/Aristotle (アリストテレス)/Hegel (ヘーゲル) の発想を言い直すと、どうなるかというと、我々人類の究極目的は、
- 「全知全能」(に可能な限り近づくこと)
である、ということになりますし、これをGerman Idealism (ドイツ観念論)/西田幾多郎的な表現で言い直すなら、
- 「主客合一」(と呼べるほどの知的/認識的水準に達すること)
ということになります。
もちろん、これは個々人の頭の中で、あるいは、cult/occult的な小集団の中で、「全知全能」「主客合一」を夢想して満足するなんていう、くだらない話ではなく、
- Natural science (自然科学)/Technology (科学技術) の発達を介して、collectively (集団的)/socially (社会的) に、公明正大かつ正当に、そして漸進的に、達成していかなければならないもの
であり、そこにこそ「我々人類にとっての (本当/本物の) 究極的な充足/満足/幸福/尊厳」が、あると言える訳です。
そういう訳で、これこそが本来は、近代社会思想が始まった17世紀の時点で用意されるべきだった、
- 人類にとって唯一共通/正当/正統な、1-1の「集団主義(的目的論)」
であると、言うことができます。
言い換えれば、
- (各集団の「前近代的な慣習/宗教」からの「(漸進的)共通移行先」としての) 人類共通の「共通基盤」「近代宗教/現代宗教」
ということになります。
逆に言えば、これ以外のいかなる思想の下で思考停止しようとも、これまでの人類史がそうであったように、
- 「恣意的/独善的な思想/派閥/宗教」の乱立による混乱
- 「科学/社会環境の発達」に伴う破綻
を、繰り返すことになるだけです。
「集団主義(的目的論)」の必要性 (1)
さて、ではなぜこの種の1-1の「集団主義(的目的論)」が、(それも地域/集団ごとにバラバラな「特殊的/慣習的/相対的」な形ではなく、人類共通な「普遍的/究極的/絶対的」な形で) 必要になるのか、その点についても、ここで改めて述べておきたいと思います。
これは端的に言えば、
- 「人類の社会/共同体を、維持/発展させ続けていくため」
ということになりますが、これをもう少し噛み砕いて表現すれば、
- ①「社会/共同体の維持/存続」 --- 子作り/子育て/協働。
- ②「軌道修正の可能性」 --- 科学/技術の発展+社会環境変化へ対応。
という2つの条件を、同時に満たす必要があるからです。
まず、①を満たすためには、(社会/共同体存続のための、説得力ある)「集団的な共通目的」が、必要になります。
この時点で既に、「個人主義 (個人目的/個人権益) しか考えてない連中」や、「社会/共同体全体ではなく、小集団の利益しか考えてない連中」は、失格になります。
しかし更に、それに加えて、②が満たされなければ、すなわち、その「集団的な共通目的」が、sustainable (持続可能) なものでないと、意味がありません。
「科学/技術の発展」や「社会環境変化」によって破綻したり、反対にその社会/共同体を「古く狭い枠組み」に閉じ込め/縛り付けて、その発展性を奪うようなものであれば、そんな「共通目的」や、それに依存した社会/共同体には、どのみち将来性は無い訳です。
そういった意味で、「共通目的」は、「幅広さ (適用範囲の広さ)」だけでなく、「奥行き (耐用年数の長さ)」も求められますし、それなりに工夫された「内容/構成/枠組み」が要求されます。
逆に言えば、それは (いずれ破綻することが予見されるような) 単なる「慣習」や、具体的/特殊的な「物語」「規範」であってはならないし、喩えるならば、
- 航海における「北極星」
のごとく、それを究極的に見据えつつ、様々な「科学/技術の発展」「社会環境変化」を身に付け/乗り越え/やり過ごしながら、「そこ」に向かって皆で共に一致協力して進んで行ける、そういう性格のものでなくてはならない訳です。
以上で、1-1の「集団主義(的目的論)」の必要性が、しかも、なぜ人類共通な「普遍的/究極的/絶対的」な (PSD的な) 形でなくてはならないのかが、分かってもらえたと思います。
「集団主義(的目的論)」の必要性 (2)
ついでに、1-1の「集団主義(的目的論)」の必要性に関して、もう1つ付け加えておくと、
- 「近代 "自由民主主義" 社会/国家」modelの破綻 (の克服)
も、挙げることができます。
「自由民主主義」とは、「国家の政治/経済/文化を独裁的に支配/管理」しようとする「極左/極右」思想/ideologiesに対して、
- 「市場経済と民主制を重視」
する、英米を中心に形成されてきた思想/ideologyであり、東西冷戦期には、「西側」全体を支えたideologyでもあります。
また、こうした社会modelは、Popper等の著作から、
- 「開かれた社会 (Open Society)」
としても、知られます。
東西冷戦が「西側の勝利」で終結後は、一応は国際社会の「標準ideology/標準model」とされ、全ての国がここに合流することが期待されるものの、Russia/中国やIslam圏を中心に、それに対する政治的な抵抗が続いている、というのが今日的状況ですね。
しかしながら、この「自由民主主義」ideology/modelは今日、以下の2つの問題を抱えており、破綻の瀬戸際にあります。
- ❶ 「政治/政府」の「平等化機能」が、機能していない。
- ❷ 「複雑化/混乱」を「縮減/抑制」する手段が、無い。
❷の問題は、ここまで上述してきた、(社会/共同体を支える柱/基盤となる) 1-1の「集団主義(的目的論)」の欠如という、「近代社会思想/近代社会の、そもそもの問題/欠陥」の派生形態なので、説明済みということで、ここでは説明は省くとして、ここでは❶について説明しておきたいと思います。
「自由民主主義」ideology/modelは、歴史的には右派と左派の揺れがありますが、東西冷戦下においては、社会主義に対抗するために、建前上は左派が優位となりました。
そして、そんな「自由民主主義 (左派)」のideology/modelでは、
- 「市場経済」によって生じた貧富格差を、民主制で制御された「政治/政府」が是正する
といった機制が、期待されていました。
しかし、これは実際には機能しませんでした。なぜなら、
- 「全ての国家/政府が、「重税を課すなら、他の国に移る」という脅迫/圧迫を、富裕層や企業から受ける形になってしまっている」
からであり、その結果、
- 国際的な「減税 (課税軽減) chicken game」
に、強制的に参加させられる格好に、なってしまっているからです。
そんな (余力の無い) 状態にある各国政府に、「それなりの課税を伴う、強力な格差是正措置」を、期待することなど到底無理な話であり、つまりは、
- 「自由民主主義」ideology/modelにおける、「政治/政府」による「貧富格差是正機能」は、「完全な絵空事 (嘘っぱち)」であることが、既にバレてしまっている状態にある
という訳です。
しかし、だからと言って、
- 「非効率かつ極度に抑圧的/弾圧的な独裁体制」である「社会主義」
を、選ぶなんていう選択肢は、当然あり得ません。
では、どうしたら良いのでしょうか?
どうしたら、「自由民主主義」の基調を維持しつつ、「市場経済」によって生じた貧富格差を縮減/抑制しながら、社会/共同体を維持していけるのでしょうか?
実際問題、方法は1つしかありません。それは、
- 「市場」と「国家/政府」の狭間に、1-1の「集団主義(的目的論)」によって強固に団結した「共同体」を設け、その内部において、「貧富格差」(や「少子化」など、種々の社会問題) を縮減/抑制/吸収/解消/帳尻合わせしていく
という方法です。
当たり前のことですが、「市場」と「国家/政府」が賄えない部分は、「共同体」が補うしか無い訳であり、こうした形でしか、「自由民主主義 (社会/国家)」を維持していくことはできない訳です。
こういった意味でも、1-1の「集団主義(的目的論)」、その普遍的/究極的な形態としてのPSDが、必要になってくる訳です。
前項の話と統合/総合してまとめると、人間社会を支えていくには、
- 「子作り/子育て」能力があり、
- 「科学/技術の発展」「社会環境の変化」に対応でき、
- 「市場経済」に適応して、金儲けもでき、
- 仲間内での相互扶助によって、「貧富格差」も吸収でき、
- 必要に応じて、「政治参加」もできる。
といった機能を併せ持った、1-1の「集団主義(的目的論)」によって強固に団結した「共同体」が、必要になる、ということになります。
「PSD」の名前の由来
そういう訳で、上述してきた1-1の「集団主義(的目的論)」が、基本的には、そのままPSDということになります。
人によっては、その「余りにも普通/当たり前」な内容に、拍子抜けしてしまったかもしれませんが、そんな「普通/当たり前」な考え/思想が、ちゃんと確立/普及/共有されていないのが、今日の人類の水準/状況なのであり、そんな環境を改善していくためには、このPSDのような思想やplatformを、広めていくしか無い訳です。
では最後に、このPSDの名前の由来を述べて、締め括りにしたいと思います。PSDは、
- Physicalistic (物理主義的)
- Secularistic (世俗主義的)
- Developmentalism (発展主義)
の略です。
その意味するところは、上述してきた歴史的経緯や、目指す方向性/究極目的などを踏まえてもらえば、自ずと理解してもらえると思います。
上述してきたような内容を、忘れることがないように、そのまま分かりやすく、messageとして、直接名称に盛り込んだのが、このPSDということになります。