PSDについて (詳細)
ここでは、PSDについて、初期から書き連ねられた煩雑な内容の文章を、そのまま提示しています。
文章としても内容としても、ちゃんと精査されてなかったり、蛇足的な部分も沢山ありますが、「言葉足らずになって、思いが伝わらない」という最悪の事態を避け、「PSDの背景に、どのような思い (思想/情念) があるのか」について、その「雰囲気/空気」だけでも感じ取ってもらいたいということで、あえて素朴さ/不恰好さを残したまま、そのまま提示しています。
全体としてだいぶ長い文章なので、拾い読み/つまみ食いでも良いので、ざっと目を通してもらって、何となく言わんとしていることを掴んでもらえさえすれば、とりあえずは十分です。
Contents
- 1 はじめに
- 2 前提
- 3 理論
- 3.1 【脳機能】「快/不快」と「記憶」
- 3.2 【実態】「快の最大化/不快の最小化」と「全知全能」
- 3.3 【規範】「宇宙史/生物史への報い」としての「最大限の発展」
- 3.4 【統合】「諸々の2分法の普遍的/究極的な合一点」としてのPSD
- 3.5 【補足1】「思想/宗教史」と「合一法」の変遷
- 3.6 【補足2】「倫理」の「絶対的部分」と「相対的部分」の区別
- 3.7 【補足3】「自然法」の2種類と「近代自然法」の問題点
- 3.8 【補足4】「自然法」の5箇条と「近代自然法」の完成形
- 3.9 【補足5】「理性」の2種類と「理性主義」の完成形
- 3.10 【補足6】既存の学術/言論 (学者/言論人) に期待できない理由
- 3.11 【補足7】「Hegel後のideologies乱立」と「20世紀的混乱」
- 3.12 【補足8】「近代第3期」と正当/正統な「近代宗教」の必要性
- 3.13 【補足9】人間関係を形成/維持する要素「目的(論)」「義務感」
- 3.14 【補足10】社会を支える「基盤層」の内容変更と再生
- 3.15 【補足11】「AI Robot」との関係
- 4 理論 (簡略版)
- 5 実践
- 6 補足
はじめに
PSD (Physicalistic Secularistic Developmentalism/物理主義的-世俗主義的-発展主義 (もしくは-発展教)) とは、文字通り、我々が推奨する、
- Physicalism (物理主義) (→ natural science (自然科学) に寄り添う)
- Secularism (世俗主義) (→ 中途半端な慣習的規範/道徳/宗教感に拘泥しない + 多様性対応)
というmodernity (近代性) を踏まえつつ、人類の、
- (Sustainment (維持) +) Development (発展) (← 知的/倫理的/技術的/能力的/活動領域的)
を追求していく、という内容を基軸とした、modern religion (近代宗教/現代宗教)/meta religion (meta宗教)/ism (主義) (-のplatform) です。
また、下述していくように、「主客合一 (SOI)」「全知全能 (AOU)/完全充足 (PS)」といった「究極目的 (UP)」を常に意識しつつ、そこへ向けて「人類のSustainment (維持)/Development (発展)」 を図っていく、という枠組み/構成から言えば、
- Purposivism (目的主義)
という言い方も、できるでしょう。
したがって、このPSDとは何かと言えば、まずは、
- Developmentalism (発展主義) であり、
- Purposivism (目的主義) である
といった言い方が、できるでしょう。
以下、その詳細の説明をしていきます。
前提
ここでは、PSDの話に入る前に、まずは押さえておいてもらいたい前提的な話をしていきます。
人類の存続/発展において不可欠なもの
まずは、人類の存続/発展を考える上で、決して欠かすことができない/避けて通ることができない、不可欠/不可避な事柄/条件について、しっかりと確認しておきたいと思います。
人類の存続/発展に役立たない、あるいは、むしろ害悪になるようなことを、妄想/夢想して脱線/逸脱して行ってしまうようなことが、無いようにするためです。
【物理性】「物理的現実」との向き合い
第1に、言うまでもなく、我々人類も、それを取り巻くこの世界も、物理的存在 (physical existences) なので、存続/発展のためには、そんなこの目の前の「物理性 (physicality)/物理的現実 (physical reality)」と、向き合い続ける必要がありますし、逆に言えば、それと向き合わず、おかしな (不自然/非物理的な) 妄想/幻想/迷信/規範/物語に囚われるなどすると、その個人/集団は、時間がかかっても必ずそれが原因/アダとなって、存続/発展が脅かされ、停滞/衰退/滅亡/淘汰へと至ることになります。
【集団性】「集団性/社会性/共同体性」と「繁殖/教育」
第2に、上記した物理性 (physicality) の話とも関連しますが、我々人類は (物理的な) 生物/動物である以上、種として存続していくためには、当然、複数人が関係した「繁殖 (reproduction)/子育て (nurturing)」が必要になります。また、生まれた子供が、獣ではなく、それなりに知性と社交性を備えた「真っ当な人間」として育つためには、「教育 (Education)」も必要になります。何もせずに自然と子供が発生/成長する訳ではありません。
そして当然、そうしたことを可能にするためは、それらを実行するための「集団性 (collectiveness)/社会性 (sociality)/共同体性 (communality)」が、必要になります。人類が種として存続/発展していくためには、こうした事柄も不可欠です。
【思想性】上2つを支える「思想性/宗教性 (目的論/義務論)」
第3に、上2つのような実践、すなわち、
- 「物理性 (physicality)/物理的現実 (physical reality)」と向き合いながら、「繁殖 (reproduction)/子育て (nurturing)/教育 (Education)」や、そのための「集団性 (collectiveness)/社会性 (sociality)/共同体性 (communality)」を保全しつつ、人類の維持/発展を図っていく
といった実践の、(普遍的/究極的な) 「意味/目的」を説いて、その実践を「動機付け/支援/善導」し続けていけるような、「思想性 (thought/ ideology/ ism)/宗教性 (religiosity)/目的論 (teleology)/義務論 (deontology)」もまた、必要になります。
こういったものが無いと、(今日、先進諸国の多くで見られるように) 人々がこうした実践の「意味/目的」を見失って、放棄したり、迷走/脱線したり、軌道修正がかけられないなんて状態に、陥ってしまうことになります。
人類の認識を構成する「3種類の2分法」
次に、人類の認識/思想/宗教を考える上で基礎となる、以下のような大まかな人類の認識の構造を、押さえておいてもらいたいと思います。
【主/客】「主観」と「客観」 (と「合一」)
人類の認識が、「主観 (subjectivity)」と「客観 (objectivity)」によって構成されることは、人類のほとんどが容認することでしょう。
環境を支配している物理性 (physicality) の威力/自律性によって形成させられた、認識主体 (自己) の欲求/願望から引き離された (剥がされた)、他者/一般者と共有可能な認識が「客観」で、それを認識主体 (自己) の欲求/願望や習慣/無知/認識障害によって歪めたり、物理性 (physicality) 以外の (情報的/物語的な) 要素を付加して加工したものが「主観」です。
(※なお、特定の集団/社会内でのみ共有される「主観」を、「共同幻想」「共同主観性」などと言ったりしますし、また「主観」がある程度の形にまとめられたものは、その性格によって「思想」「仮説」「物語/寓話/おとぎ話/虚構/創作」など、様々な呼ばれ方をします。)
(※また、「主観」と「客観」は、あくまで相対的な区別であり、どこまでを「主観」「客観」とするのかは、厳密に確定させることが困難です。例えば、全ての認識が、人類種の「脳-神経-感覚器」を経由して成立していたり、「言語」を通して表現/記録されるという点では、どんなに「客観的」であっても、そこには (人間的/社会的/言語的な)「主観性」が混ざり込んでしまうと、言うこともできますし、逆に、人間の「主観 (欲求/願望/障害)」を生み出している「脳-神経」自体が、「物理的存在 (physical object)」である以上、人間の全ての認識は、「外的な物理的環境」と「内的な物理的環境」が相互作用的に織り成す「物理現象 (physical phenomenon)」の一種に過ぎないのであり、全ての認識は、ある意味では「客観的」であると、言うこともできます。)
(※また、一口に「客観」と言っても、物理性 (physicality) を背景としている点は共通していますが、経験/知識の量や、科学の発展など、各人や時代によって、当然その「精度」は異なってきます。)
そんな「主観」と「客観」ですが、ここで押さえておいてもらいたい重要な点は、古代から世界各地で展開されてきた様々な思想/宗教における、「人間にとっての最高/究極の (善/幸福/充足の) 境地」というものは、実は概ね共通しており、その「共通の答え」とは、
- 「主観と客観 (主客) が合一した境地」
だという点です。
その理由は簡単で、「客観性 (物理性) を踏まえない主観 (欲望) は、ただの妄想として、簡単に反駁/否定/攻撃され、破綻させられる/挫かれることになる」し、逆に「主観 (欲望) が関わらない客観は、ただ虚しいだけ」なので、自ずと「主観と客観 (主客) の合一」こそが、至高/最上であるという認識に、行き着く/落ち着くことになる訳ですね。
念のため、もう1度繰り返しますが、「人間にとっての最高/究極/至福の境地」についての世界中の思想/宗教の「共通の答え」が、「主客合一」です。
Chinaでも、Indiaでも、Middle Eastでも、Greece/Europeでも、その点は共通です。
この点をまずはしっかりと、押さえておいてもらいたいと思います。
(※なお、この「主客合一」という発想が明確化されたのは、いわゆるGerman Idealism (ドイツ観念論) の流れの中であり、日本においては、『善の研究』で有名な西田幾太郎などが、明治時代に早くも明確な用語/概念として、これを受け取っています。)
(※ちなみに、この「主観-客観 (主客)」という2分法に類似したものとしては、
- 心-身体 (心身)
[精神-肉体]
[霊魂-肉体 (霊肉)]
[神聖-世俗 (聖俗)]
[天上-地上 (天地)] - 心-物質
[精神-物質]
[思想-科学]
[倫理-科学] - 観念-実体
[観念論-唯物論]
[上部構造-下部構造] - 目的論/義務論-存在論
[規範-実態]
[理想-現実]
[卓越/至高-真理] - 理性-本能
[知性-本能]
[意志-本能]
[秩序-無秩序]
[意味-無意味] - 感情-理性 (情理)
[感情-知性]
[感覚-理性]
[感覚-数値]
[感覚-言論]
[心象-言論]
[sense/image-language/logic]
[qualia/gestalt-language/logic] - 即自-対自
[一人称-三人称]
[抽象-具体]
[演繹-帰納]
[確信-理知 (信知)]
[能動-受動]
[行動-観察]
[実践-観想]
[実践-理論]
[実践-学習]
[理性-経験]
[理論-実験]
[絶対-相対]
[固定-流動]
[没入-離脱]
[悲劇-喜劇]
[偏執-分裂]
[充足-疎外]
[熱狂-鎮静]
[上げ-下げ]
[ボケ-ツッコミ]
[ノリ-シラケ (萎え)]
[踊る阿呆-見る阿呆]
といったものがありますが、これらは「主観-客観 (主客)」の言い換えであり、仲間のようなものだと捉えておいてもらうといいでしょう。
なお、「理性」類と「感情/本能」類は、対置される概念や、文脈次第で、どちらにも割り振られ得るので、注意が必要です。)
【客観】「物理現象」と「世界存在」
上記した「主観-客観 (主客)」の片方である「客観 (objectivity)」や、それを形成する原因である「物理性 (physicality)」は、更に2つに分けることができます。それは、
- ② 「(物理的)世界の存在性 (existence of the world)」 --- 「この世界が存在する」ということそれ自体。
- ① 「物理現象 (physical phenomenon)」
の2つです。
①は、日常において我々が接触/知覚/経験している「物理性 (physicality)」そのものなので、分かりやすいと思います。固体など比較的変化が遅い物は、「物理現象 (physical phenomenon)」というよりは、「物理的実体 (physical entity)」と表現した方が分かりやすいでしょうが、仏教の「無常」のごとく、この世の物はどんな物であっても、長い時間の中で、変化/生成消滅していくものであり、全てが広い意味での「物理現象 (physical phenomenon)」です。
そんな「全てが変化し続ける」この物理的世界 (physical world) において、「唯一変化しないもの」があります。それが②の「(物理的)世界の存在性 (existence of the world)」、すなわち「この世界が存在している」という事実そのものです。
これは人間の認識機能が、「この世界で変化/生成消滅している (無常な) 一切のもの」を捨象しつつ、認識を抽象化して行きながら、「(変化しない) 恒常/安定的/超越的なもの」を探し続けて行った果てに、「最後に到達する認識」であり、こうした「現象」と「超越」の二元論は、歴史的には、Parmenides (パルメニデス) とBuddha (ブッダ) によって、初めて明確に打ち出された発想です。前者は「超越/非現象/非変化 (的なこの世界の存在性それ自体)」を「To Eon (ト・エオン)」と呼び、後者は「Nibbana (ニッバーナ)/Nirvana (ニルヴァーナ)」と呼びました。
(※このように、「超越」とは元来、「この世界の存在性そのもの」を象徴する単一の概念だった訳ですが、Plato (プラトン) が「現象」と「(根本的) 超越」の狭間に、「多様な超越」としての「Idea (イデア)」を持ち込んだり、Democritus (デモクリトス) が「Atomos (アトモス)」へと細分化するなどして、元々の「超越」概念の意味/意義が崩れてしまい、原義が分かりづらくなってしまいました。仏教においても、特に大乗仏教圏において、「Nirvana (ニルヴァーナ/涅槃)」の「超越性」や、「無常/現象との関係性」が曖昧にされ、教義/行法と共に「型崩れ」を起こして、その原義/本義が失われることになりました。)
こうした「現象」と「超越」の二元論ほど明確では無いにしろ、我々人類の「世界観形成」というものは、身近な「物理現象」から始まり、「世界の根源性/究極性/原因性」へと遡及していき、また逆にそこから我々の「日常生活」へと還って来るという、①→②、②→①の「往復運動」を通じて形成されるので、「文化/culture」のpageでも述べたように、人間の思想/宗教というものは、「2階建構造」に行き着くことになります。
natural science (自然科学) もまた、①から出発し、②の根源へと迫って行きつつ、その知見を①の日常生活へと応用/還元していく格好になります。
このように「客観」や「物理性」もまた、その内容は大きく2つに分かれることを、押さえておいてもらいたいと思います。
【主観】「個人」と「集団」
更に、「主観-客観 (主客)」のもう片方である「主観 (subjectivity)」や、それを形成する原因である「欲求/願望/感情/需要」類もまた、大まかには2つに分けることができます。すなわち、
- 「集団的 (collective)/社会的 (social)/公共的 (public)」
- 「個別的 (individual)/個人的 (personal)/私的 (private)」
の区別です。
「主観」に関しては、「個人間」の対立のみならず、こうした「個人 vs 集団」の対立、更には「集団間」の対立も、常に問題になります。
さて、以上述べてきた通り、「主観-客観 (主客)」における「主観」と「客観」は、更にそれぞれ「個人-集団 (個集)」「現象-超越 (現超)」の2つに分かれ、計4つになるので、「主客合一」を考えるということは、これら4つの合一点を考えることでもある、ということになります。
- 客観 (objectivity)
- 超越/世界存在 (transcendence/existence of the world)
- 現象 (phenomenon)
- 主観 (subjectivity)
- 集団 (collective)
- 個人 (individual)
この点を、まずはしっかりと押さえておいてもらいたいと思います。
近代の特徴
更に、近代は、それより昔の前近代的な時代と比べると、以下の2点で決定的に異なるので、これらも前提として、押さえておいてもらう必要があります。
【自然科学】「存在論」の「自然科学」化
近代の第1の特徴は、「natural science (自然科学) の発達」であり、これが人類共通の、最高かつ絶対的な「存在論 (ontology)」として君臨し続けることになる、という点です。
(※ちなみに、「存在論」と対になる概念は、「目的論 (teleology)/義務論 (deontology)」であり、上述した通り、「目的論/義務論」と「存在論」の関係は、「主観」と「客観」の関係と重なります。)
前近代的な時代においては、様々な思想家/宗教家/哲学者たちが、各々に好き勝手な世界観/人間観を語ってきた訳ですが、natural science (自然科学) が発達した近代以降は、そうした話は否応無く「虚偽/デタラメ」「寓話/おとぎ話」「伝統/慣習」の類として、認識/処理されて行かざるを得なくなります。
(※これは言い換えれば、「文化/Culture」のpageでも述べたように、思想/宗教の「2階建構造」の「2階部分」、「世界の根源」を説明するはずの「2階部分」が、natural science (自然科学) に取って代わられ、前近代的な従来の思想/宗教の「2階部分」は、「中2階」(「1階部分」の上部) へと格下げになってしまう事態を、意味します。)
したがって、こうしたnatural science (自然科学) が発達した近代においては、「主観」と「客観」の合一、すなわち「目的論/義務論」と「存在論」の合一は、「存在論」を担うnatural science (自然科学) と相応/共存し、内容的に齟齬無く噛み合う水準の「目的論/義務論」を新たに用意することで、成し遂げられなくてはなりません。
逆に言えば、natural science (自然科学) と噛み合わない/相容れない/共存できないような存在論/世界観に基づいた思想/宗教は、そうした役割は果たせないので、相対化/淘汰されていく運命だということになります。
【社会崩壊】「市場経済/人権」による「少子化/社会崩壊」
近代の第2の特徴は、「市場経済 (market economy)/人権 (human rights) 活動の普及/浸透/深化」であり、それに伴う「貧富格差拡大/無秩序化/非道徳化」「個人主義化/多様化」による、「従来的な共同体/家族の解体」「少子化」「社会崩壊」の進行です。
こういった特徴からすれば、そもそも従来的な「近代社会 (modern society)」像は、sustainable (持続可能) なものではありません。第2次世界大戦後の「baby boom」による「人口bonus」や、安価な「外国人労働者」を食い潰しながら、騙し騙し運営されてきた20世紀の近代社会ですが、わずか半世紀程度の期間で、先進諸国を中心に、もはや誤魔化し切れない程に、その限界が見えてきているのは周知の通りです。
端的に言えば、17世紀以降のこれまでの近代社会思想では、あまりにも素朴に、「個人の解放 (自由/平等/所有)」ばかりが主張/追求されて、社会の存続というものが、あまり省みられて来ませんでした。今日の先進諸国のように、人々が「子作り/子育てをしなくなる」という事態を、ちゃんと想定して来なかったし、「個人の欲望ばかりを追求すると、社会は破綻する」というPlato (プラトン) が提起していた当たり前の問題意識が、ちゃんと継承されて来なかった訳です。
昨今では国連主導でSDGs (持続可能な開発目標) がもてはやされていますが、他方でこうした「近代社会 (modern society) 自体が、そもそもsustainable (持続可能) ではない」という根本的な実態に目を向けていないことは、非常に滑稽であると同時に、子孫たちに対して不誠実/無責任であると言わざるを得ません。
ただし、ここで注意しなくてはならないのは、「近代社会 (modern society) 自体がsustainable (持続可能) ではない」ことの原因/責任を、「市場経済/人権」に負わせ、これらを否定して「社会主義」や「封建主義」に回帰するような、反動的な事態を招いてはいけないという点です。
「市場経済/人権」や「自由主義 (liberalism)/民主制 (democracy)」といったものは、経済的/政治的な制度/妥協点として、bestではありませんが、それらの産物としての「個人性/多様性」と共に、「feedback/調整能力」を機能させ、「(発展/改善のための) 試行錯誤の余地」を確保できるという点で、「最悪を避ける」ことができますし、betterではあります。
したがって、こうした「市場経済/人権」「自由主義/民主制」や、それらの産物としての「個人性/多様性」といったものは、引き続き擁護/保全していく必要があります。
したがって、考えるべきは、「市場経済/人権」「個人性/多様性」等を擁護/保全しつつも、それが生み出す「従来的な共同体/家族の解体」「少子化」「社会崩壊」の進行といった負の側面を、補って行くことです。
そして、そのためには、
- 「旧来的な伝統/慣習/道徳感に対して囚われないながらも配慮ができ、他方で個人性/多様性への寛容さを持ちつつも、共同体性/社会性や人口の維持/回復を図っていけるだけの、「共通の究極目的/究極義務 (生きる/繁殖する/継承する/発展する意味)」を持ち合わせた、meta的な思想性/宗教性 (目的論/義務論)」
が、必要になります。
以上から求められる「現代的/meta的な思想/宗教」像
以上の内容を分かりやすくまとめると、以下のようになります。
- 客観 (objectivity) = 存在論 (ontology) → natural science (自然科学)
- 超越/世界存在 (transcendence/existence of the world)
- 現象 (phenomenon)
- 主観 (subjectivity) = 目的論/義務論 (teleology/deontology) → (「自然科学/科学技術」の発展と) 社会的な「feedback/調整機能」「試行錯誤余地」の確保/保全と、「共同体性/社会性/人口」の維持/回復を、支援/実行していける、「共通の究極目的/究極義務」を持ったmeta思想/宗教 (目的論/義務論)
- 集団 (collective)
- 個人 (individual)
これを、主観/目的論/義務論の側からまとめ直しますと、将来的に、様々に取り巻く諸条件が変化し続けていく中で、
- 「自然科学/科学技術」の発展
- (「市場経済/人権」「個人性/多様性」といった) 社会的な「feedback/調整機能」「試行錯誤余地」の確保
- 「共同体性/社会性/人口」の維持/回復
を、両立/包摂する形で支援/実行しながら、
- 高いlevelでの「主客合一」の実現を、追求していける究極目的/究極義務と枠組み
を持った思想/宗教 (目的論/義務論)、それこそが今日求められている「現代的/meta的な思想/宗教 (目的論/義務論)」像であると、言えるでしょう。
これで何となく、現代において求められている思想/宗教 (目的論/義務論) の形が、おぼろげながらにも、掴んでもらえたと思います。
これは割と当たり前のことを言っているように感じる人も多いでしょうが、では実際こうした内容の思想/宗教 (目的論/義務論) や、それに基づく共同体が、世界のどこかにある (あった) のか考えてもらうと、問題の重大さを理解してもらえると思います。
意外にも、無いのです。
こうした、当たり前の思想/宗教 (目的論/義務論) や、それに基づく共同体を、ちゃんと用意しないまま、何となくやってきてしまったのが、ここ数百年の人類の近現代史であり、そうであるが故に、現在人類は様々な問題に直面していますし、例えば「少子化」一つとっても、まともに対処できている社会/国家は1つも無い訳です。
したがって、上述したような条件を満たす思想/宗教 (目的論/義務論) を、自然かつ普遍的な形で導出/構築しながら、人間社会の諸問題に対処していける環境を整備していかねばなりませんし、我々に言わせれば、それこそがPSDである、ということになる訳ですが、その説明を、以下で行っていきたいと思います。
理論
ここでは、PSDの理論的な面を、構成的に説明して行きます。
【脳機能】「快/不快」と「記憶」
我々人類 (動物) の認識が、「脳-神経」によって形成されることは、誰もが認めるところでしょうが、そんな「脳機能」の中でも、誰もが最も基礎的かつ最重要な機能として認めるのが、
- 「快/不快 (comfort/discomfort)」
- 「記憶 (memory)」
という2つの機能でしょう。
この「快/不快」と「記憶」の機能の組み合わせによって、我々人類 (動物) は、経験的に「外部世界」を「認識/学習」していくことになりますし、「自己認識/社会認識」や「世界観」も、また「理性/知性」や「思考力/判断力」と呼ばれている機能も、そして上述した「主観」と「客観」も、そうした「快/不快」と「記憶」の機能の組み合わせを基礎として、後から形成/醸成されるものに他なりません。
このように、我々人類 (動物) の「認識/思考」を形成する「脳機能」を考える場合、「快/不快」と「記憶」こそが、最も基礎的かつ最重要なのであり、そのことは、将来どれだけ脳科学が発達しようが、また人類が進化しようが、変わりようが無い、単純かつ普遍的な真理です。
したがって、「時代/条件変化によって古びるようなことが無い、普遍的な思想/宗教 (目的論/義務論)」の構築を考える上では、この点をまずは基礎/出発点とすることが、最も安全/確実であると言えます。
(※そして仮に、後の時代に修正を加える必要が出て来たとしても、こうした単純かつ普遍的な基礎に立脚していれば、後から修正を加えるのが、とても容易なものとなります。中途半端に「余分な設定」を盛り込んでしまうと、後の時代の修正が困難になり、丸ごと破棄して一から構築し直さなくてはならなくなってしまいます。)
【実態】「快の最大化/不快の最小化」と「全知全能」
さて、ではこの「快/不快」と「記憶」という主な2つの「脳機能」に基づいて、我々人類の「認識/思考/志向/嗜好/需要」が、どのような「方向性/傾向性」を持つことになるか、まずはその実態的 (actual)/本能的 (instinctive) な側面を、述べて行きたいと思います。
もちろん、様々な「経験」とその「快/不快」の「記憶」が蓄積され、「認識/思考/志向/嗜好/需要」が形成されていく過程は、人それぞれ違いますし、その人がその時々で置かれている (外的 (自然環境的/社会的) もしくは内的 (身体的-生理的/心理的-頭脳的) な)「環境/境遇/条件/状況」によっても、「認識/思考/志向/嗜好/需要」は影響を受けます。
つまり、我々人類の「認識/思考/志向/嗜好/需要」は、個人的なlevelでも、集団的/社会的なlevelでも、「記憶」と「(内外の) 環境/境遇/条件/状況」と「快/不快」が組み合わされつつ、比較的「長期的/安定的/抽象的/普遍的/巨視的/究極的-根本的/観念的」なものから、比較的「短期的/一時的/具体的/特殊的/微視的/短絡的-表層的/生理的」なものまでが、様々に錯綜しつつ、合成/複合される格好で、成り立っていると言えるでしょう。
したがって、(「記憶」や「(内外の) 環境/境遇/条件/状況」が絡んでくる)「内容的な部分」は複雑と言えば複雑な訳ですが、まず「快/不快」に焦点を当てれば、その「方向性/傾向性」は明らかです。すなわち、
- 「comfort (快) のmaximization (最大化) と、discomfort (不快) のminimization (最小化)」
という絶対的な原理/原則 (principle) が、ここにはあります。
ちなみに、これは、
- 「Sufficiency/Satisfaction Need(s) (SN/充足欲求)」
等と、呼ぶこともできます。
このSN (充足欲求) は、上記したように、(「記憶」や「(内外の) 環境/境遇/条件/状況」と組み合わされつつ、個人的なlevel、集団的/社会的なlevel、比較的「長期的/安定的/抽象的/普遍的/巨視的/究極的-根本的/観念的」なもの、比較的「短期的/一時的/具体的/特殊的/微視的/短絡的-表層的/生理的」なもの、といったように) 様々なlevels/形態のそれが、錯綜的/合成的/複合的に存在し得るし、発揮され得る訳ですが、その根本/本質は、このようにとてもsimpleに表現できます。
そして言うなれば、このSN (充足欲求) こそが、人間の本質的/根本的な「駆動源/動力源」であると言えますし、例えば、Plato (プラトン)、Kant (カント)、Hegel (ヘーゲル) などに代表されるようなphilosophy (哲学) の営みの (隠れた) 根本的な主題でも、ある (あった) わけです。
そして、この絶対的な原理/原則 (principle) は、最も低級な形としては、食欲/排泄欲/性欲/睡眠欲といった生理的/動物的なものとして現れますが、もう少し高度化/複雑化すると、各個人/各集団の「記憶」や、その時々の 「(内的/外的な) 環境/境遇/条件/状況」と、結び付く (それらに具体的に適用/反映される) ことで、(政治/経済/文化/sports/社会/科学技術/道徳/軍事など) 様々な社会的営みの各分野/事物における、「比較/競争/序列/優劣/勝敗/支配/所有」などに関する、
- 「卓越性 (excellence)/向上 (improvement)」への欲望/志向/希望
として、反映されることになりますし、最も抽象的/究極的/根本的には、
- 「全知全能 (almightiness/omnipotence/omniscience)」への欲望/志向/希望
として、現れることになります。
(※なお、上では分かりやすく「全知全能」と表現しましたが、これをもう少し正確に表現すれば、
- 「全知全能-無制限-状態 (Almighy/Omnipotent/Unlimited state)」
- 「全知全能-無制限-者 (Almighy/Omnipotent/Unlimited one)」
といった具合になるでしょうが、こうした概念を、我々は「AOU」と略称しています。
また、ここに到達することで得られると期待される「充足感/満足感」は、
- 「Perfect Sufficiency (完全なる充足)」
- 「Perfect Satisfaction (完全なる満足)」
と表現できるでしょうが、これを我々は「PS」と略称しています。)
(※この「AOU/PS」の発音は、English風に「エイオウユー/ピーエス」でも良いですが、そのまま読んだ「アオウ/プス」でも良いです。この「AOU/PS」は、これ以降も、「全知全能」の代替表現として、度々用いられることになるので、覚えておいて下さい。)
したがって、「共通の絶対的な客観 (objectivity)/存在論 (ontology)」であるnatural science (自然科学) と噛み合って、高いlevelでの「主客合一」を目指すことができる「共通の主観 (subjectivity)」としては、まずはこの「快の最大化/不快の最小化」という原理/原則 (principle) を基盤とした、「卓越性/向上→全知全能への欲望/志向/希望」を、人類にとっての普遍的な「共通の目的論 (teleology)」として、挙げることができるでしょう。
「世界の根源」に到達すべく発展して行くnatural science (自然科学) としての「共通の客観 (objectivity)/存在論 (ontology)」と、「全知全能」を欲望/志向/希望するこの「共通の主観 (subjectivity)/目的論 (teleology)」は、噛み合い協働しながら、人類にとって可能な限りの究極的な「主客合一」を、目指していくことができます。
【規範】「宇宙史/生物史への報い」としての「最大限の発展」
そういう訳で、まずは人類の実態的 (actual)/本能的 (instinctive) な側面から、「快の最大化/不快の最小化」という原理/原則 (principle) に基づいて、「全知全能を欲望/志向/希望する」という、人類にとっての普遍的な「共通の目的論 (teleology)」を素直に導き出した訳ですが、こうした「素朴な本能/欲望の反映としての目的論 (teleology)」だけでは、まだまだ人類を支えたり牽引して行くには、「不安定/脆弱過ぎる」と感じる人も、少なくないことでしょう。
「目先の強烈な欲望に囚われる」だとか、「諦める/妥協する」だとかで、この「全知全能」へと向かう「共通の目的論 (teleology)」の路線が、挫かれてしまうことも全然あり得るからです。
そこで、反省的 (reflective)/規範的 (normative) な切り口から、この「全知全能」へと向かう「共通の目的論 (teleology)」を、補強することができる「共通の義務論 (deontology)」を、普遍的な形で導出することは可能か、またそれはいかにしてかを、次に述べて行きたいと思います。
通常、「義務感/使命感」といったものは、「何かを背負う (何かに執着する)」ことで生じます。家族、仲間、故郷、国、民族、先祖、伝統・・・といったものを背負う (〜に執着する) 形で。
しかし、「経験/知識の増加」や、「科学の発達」などによって、「知見/認識が成熟」していく過程で、それらの多くは相対化されて行くことになりますし、そうすると我々は自ずと、「自分の人生/命を捧げるに相応しい」と思えるものを探索しながら、
- 「より大きく広く深い視座」と「より本質的/根本的な執着対象」
を獲得して行くことになり、最終的には、
- 「本当に背負うべきは、自分たちを生み出した、この世界/宇宙の歴史、地球の歴史、生物進化の歴史、そして人類史、その「全体」である」
というlevelまで到達することになります。
知見/認識がそのlevelにまで到達したならば、当然の流れとして、その「宇宙史、地球史、生物史、人類史の全体」「世界存在の全体」を背負った上で、「それに報いるには、どうしたらいいか、どう生きたら (人生/命を使ったら) いいか」という、人類としての「義務感/使命感」を考えるようになりますし、それは最終的には、
- 「可能な限り、最大限に発展を遂げる、「全知全能」に近づく」
という発想に、行き着くことになります。
もちろん、人類 (や、その後継的な活動体) が「全知全能」に到達する保証などどこにもありませんし、むしろ直感的には否定的な考えとなるでしょう。
しかし、あえて言えば、「実際にそこまで到達できるかどうか、実現可能かどうか」、そんなことはどうでもいいのです。要するに、
- 「そもそもこの世界において、これ以外の道などありようも無い」し、「この道を、行ける所まで行き切る」ことが、その「姿勢/行為/実践それ自体」が、「我々人類の存在意義」であると同時に、「我々人類を生み出したこの世界に対して、最大限に報いる方法」であり、「我々人類の生に、最高の充足と尊厳 (すなわち幸福) をもたらしてくれる」ものでもある
というところまで内容的に突き詰められたなら、「対象も方向性も曖昧/流動的」だった何となくの「義務感/使命感」が、
- 「確固たる、揺るぎ無いpreparation (覚悟)/belief (信念)/conviction (確信)/deontology (義務論)」
として昇華/確立されることになりますし、上述した普遍的な「共通の目的論 (teleology)」を補強/補完し、「全知全能への道程」を支えて行くことが可能な、普遍的な「共通の義務論 (deontology)」となる訳です。
(※もちろん、「経験/知識の不足」ゆえに、こうしたlevelにまで到達できなかったり、到達しても維持できなかったりして、「目先の/個別の/狭小な/流動的な「義務感/責任感」」にばかり執着してしまう人々も、いることでしょう。しかし、その先にあるのは、諸行無常的な流動性の中での「迷い/混乱/失望/不満足」「断絶/淘汰/忘却」の繰り返しです。
年を取り、経験が増えるほど、そのことは分かり易くなって来ますし、それによって、ようやくここで述べられていること (普遍的/究極的なものに依拠すること) の意味/意義を、実感を伴って理解できるようになる人もいるでしょうが、逆にそれでもこのlevelの到達/維持へと至らないまま、生涯を終えてしまう人も出て来てしまいますし、それは仕方無いと言う他ありません。)
【統合】「諸々の2分法の普遍的/究極的な合一点」としてのPSD
このように、「全知全能への道程」として、「目的論 (teleology)」と「義務論 (deontology)」は、すなわち人類の「主観 (subjectivity)」の「集団」的な側面は、無理なく自然かつ普遍的/汎通的/共通-共有的な形で、「合一」されることになりますし、各人の偏狭/矮小な「個人」的なこだわりに関しても、それらを尊重しつつも、その「内容的な中途半端さ」「時間的な短さ」等を指摘して自覚させてあげることで、「集団/人類」のそれへと「接合/合流/合一」させていくことが可能です。
(※もちろん「個人」的なこだわりを捨てたり、全面的に「集団/人類」へと「合一」させる必要はありません。内容を理解/納得の上、一定の「集団開放性/社会性/公共性/発展性/協働性」を獲得/維持してもらえる程度に、「集団性/人類性」への意識を保有してもらえば十分です。)
更に、その「主観 (subjectivity)」「目的論 (teleology)/義務論 (deontology)」の「合一点」である「全知全能への道程」は、最高の「客観 (objectivity)」「存在論 (ontology)」としての「natural science (自然科学)」の方向性である、「真理/世界の根源の探求」と不可分一体的であること、すなわち、
- 「全知全能」を目指すためには、「真理/世界の根源の探求」が不可欠であり、逆に「真理/世界の根源の探求」という営みを維持/発展させていくためには、「全知全能」への志向/情熱/義務感/使命感が不可欠である
ということに思い至りさえすれば、ここ (「全知全能」と「真理/世界の根源」の不可分性) を「合一点」として、「主観 (subjectivity)」「目的論 (teleology)/義務論 (deontology)」と、「客観 (objectivity)」「存在論 (ontology)」の、正当に普遍的/究極的な「主客合一」の枠組みへと、到達できるようになります。
この普遍的/究極的な「主客合一」の枠組みを踏まえつつ、その「全知全能 (真理/世界の根源) への道」を、実践的に進み続けて行くために、
- Developmentalism (発展主義)
に加えて、その実践/前進を支える、
- Physicalism (物理主義)
- Secularism (世俗主義)
の2本柱を、補助的に付け加えたものが、このPSD (Physicalistic Secularistic Developmentalism/物理主義的-世俗主義的-発展主義(もしくは発展教)) ということになります。
以上で、PSDの理論/枠組みの概要を、把握してもらえたと思います。
最後に、PSDのmotto (モットー) を提示して、このsectionを締め括りたいと思います。
【補足1】「思想/宗教史」と「合一法」の変遷
補足として、ここに人類の「思想/宗教史」と、その中における「主客合一法」の変遷の大まかな流れを述べながら、PSDの立ち位置というものを、より明確にしておきたいと思います。
そうすることで、PSDについての理解も深まると同時に、前近代的な考え方/実践に対する理解も深められますし、その「ダメな部分」の反復をせずに済むようにもなります。
まず端的に述べますと、人類の「思想/宗教史」「主客合一法」は、以下の4段階に、分けることができます。
- 4. 科学系 (S) - 精緻に「現象」から「根源」へと接近。
- 3. 二元/統合系 (D/I) - 「現象」と「根源 (超越)」の分離/統合。
- 2. 根源系 (F) - 「世界の根源/原因」を象徴する概念が登場。
- 1. 現象系 (P) - 「自然現象/動物/英雄/先祖」などを神格化。
1の現象系 (P) とは、「自然現象/動物/英雄/先祖」などの「眼前の/近接的な偉大な現象/存在」を、そのまま神格化した枠組みです。例えば、Egypt (エジプト)、Greece (ギリシャ)/Rome (ローマ)、North Europe (北欧)、Middle East (中東)、Iran-India (イラン/インド)、China (中国)、Pacific (太平洋)、Americas (アメリカ大陸) など、世界中の原始的な多神教 (的信仰) のほとんどが、ここに分類されます。
ちなみに、この段階における「主客合一法」は、基本的には「呪術」や、酒/幻覚剤などを用いた「幻覚」などが挙げられます。
2の根源系 (F) は、そんな1から発展した、「世界の根源/原因」を象徴する概念を、伴う枠組みです。例えば、
- Middle East (中東) の一神教のYahweh (ヤハウェ)/Allah (アッラーフ)
- India (インド) のBrahman (ブラフマン/梵)
- China (中国) のTian (天)/Taiji (太極)
- Japan (日本) のJapanese mythology (日本神話)/Shinto (神道) におけるAmeno-minaka-nushi (アメノミナカヌシ/天之御中主神)
を、それぞれ頂点とした枠組みが典型的です。
ちなみに、この段階における「主客合一法」は、基本的には「信仰/帰依」による、「世界の根源/原因」概念との一体化といった手法が用いられます。
3の、まず二元系 (D) とは、そんな2の枠組みをさらに押し進めて、
- (有限的/流動的な)「(自然) 現象」と、(無限的/静止的であるはずの)「(世界の存在性の) 根源/原因」が、直接的/連続的につながっていることは、おかしい/矛盾ではないのか
という反省から、「現象」と「根源 (超越)」を、二元論 (dualism) 的に、明確に分離した枠組みです。例えば、
- Greek philosophy (ギリシャ哲学) における、Parmenides (パルメニデス) (→ Plato (プラトン) → Aristotle (アリストテレス)) の系譜の枠組み
- Kant (カント) のAntinomie (アンチノミー) を含む「批判哲学/超越論哲学」の枠組み
- Buddhism (仏教) における、Saha (娑婆/有為/無常/此岸) とNirvana (涅槃/無為/常住/彼岸) から成る枠組み
などが、典型的です。
それに対して、統合系 (I) とは、上記したような二元系 (D) の思想によって分裂してしまった「現象」と「根源 (超越)」を、(両者の接合や重ね合わせによって) 再統合することを試みる枠組みです。例えば、
- Greek philosophy (ギリシャ哲学) における、(Parmenides (パルメニデス) に対する) Plato (プラトン) → Aristotle (アリストテレス) の系譜の枠組み
- (Kant (カント) に対する) Hegel (ヘーゲル) の枠組み
- Upanishads (ウパニシャッド) の「梵我一如」思想や、(Early Buddhism (初期仏教) に対する) Mahayana Buddhism (大乗仏教)/Vajrayana Buddhism (金剛乗仏教/密教) の枠組み
などが、典型的です。いわゆるPantheism (汎神論) 等も、この一種だと言えます。
この統合系 (I) は、Mandala (曼荼羅) のごとく、「究極/全体と部分の一体性」が意識されているという点で、1の現象系 (P) とも、2の根源系 (F) とも異なりますし、下述する4の科学系 (S) の前段階と言っても良いような、mindsetや情緒の素地を形成します。
ちなみに、この段階における「主客合一法」は、「「現象」的なものを排除しながら、「根源 (超越)」的なものを、炙り出していく」だとか、「「現象」と、「根源 (超越)」が、一体的であることを感得する」といった手法/発想を採るので、「理知 (理性/知性)」や「知恵 (智慧)」が強調されたり、「瞑想」や「直観」といった手段/能力が重要とされたりします。
そして最後、4の科学系 (S) とは、
- 「現象」についての精緻な知見である、Natural Science (自然科学) の構築/洗練を通じて、正当に「根源」へと接近していく (「現象」と「根源」を、正当/精緻に統合していく)
という、近現代的な枠組みであり、そして、その道程を、
- 「充足感/義務感」の反映としての「目的論/義務論」に支えられた、「発展主義」
で、補強したものが、このPSDということになります。
ちなみに、1〜3の裏側には、それらに対する対抗思想であり、Natural Science (自然科学) が発展する原動力ともなった、
- 「神格化/神話化」や「根源」を拒絶し、ただただ眼前の「現象」をありのままに受け止めようとする、唯物快楽系 (MH) の系譜
もあるわけですが、この立場は、「根源」への志向/目的論/義務論が欠落していたり、脆弱な分、倫理や社会思想としては、1〜3に対抗できない弱さがあります。
歴史的に見ても、唯物快楽系 (MH) の系譜は常に、社会的には弱小勢力で、個人や小集団によって、細々と受け継がれてきた経緯があります。
逆に言えば、4の科学系 (S)/PSD は、そんな2つの思想潮流を統合した、「主客合一法」の最終形態とも言えるわけです。
こうした全体像を踏まえてもらうと、PSDの輪郭や立ち位置を、より明確に理解してもらえると思います。
科学系 (S) (近現代的) 【④科学/技術+充足/義務】 | |
二元/統合系 (D/I) (哲学的) 【③理知/瞑想】 |
唯物快楽系 (MH) (短絡的/近視眼的) |
根源系 (F) (一神教的) 【②信仰/帰依】 | |
現象系 (P) (多神教的) 【①呪術/幻覚】 |
【補足2】「倫理」の「絶対的部分」と「相対的部分」の区別
もう1つ補足として、倫理における「絶対的部分 (領域)」と「相対的部分 (領域)」の区別を知ってもらうことで、PSDの立ち位置に対する理解を、より明確なものにしてもらいたいと思います。
Aristotle (アリストテレス) が、『Nicomachean Ethics (ニコマコス倫理学)』としてまとめられた文献 (講義録) の中で、「卓越性/徳 (アレテー)」に関して、「道徳的卓越性」と「知的卓越性」という区別を持ち込み、前者 (「道徳的卓越性」) に関しては、「中庸 (メソテース)」で対処することの重要性を説いていたりだとか、あるいは、Plato (プラトン) やAristotle (アリストテレス) の政体論が、最終的に「混合政体」を推奨する形で、落ち着いた点などからも分かるように、倫理(学)や、それを基盤とした政治(学)の中には、
- 「絶対的な善悪/方向性」を定めることが可能な「絶対的な部分」と、
- それが不可能で、両極端を避け、「balance/中庸/適度」を維持することが望ましい「相対的部分」
という区別があります。
倫理における「相対的部分」とは、身体における「交感神経系」と「副交感神経系」とか、「陽」と「陰」のように、「対となる両極端な概念/機能の協働/balance」によって、個人や社会の「内的環境」の一定の状態 (定常性) を、保つような分野/領域のことです。
個人でも社会でも、様々な事柄についての「絶対的な規準/規範/規則」が見出しにくい/設定しにくい環境/条件/状況下では、「画一化/硬直化/停滞」と「何でもあり/無秩序/混乱」という両極端な状態を避けつつ、「適度な秩序と柔軟性」や「存続/発展」の実現/達成を図っていかなければならない以上、こうした倫理の「相対的部分 (領域)」というのは、どうしても必要になって来ます。
(※これは、近代社会において、「市場経済」や「民主制」が、「feedback機能/調整機能」「試行錯誤の余地」として要請/尊重されることになる事情/背景と、全く一緒です。)
逆に、そんな (相対的な) 分野/領域において、「両極端のどちらか一方」を絶対視することの不毛さや危険性は、言うまでもありません。
そして率直に言えば、近代社会を支えている「自由」や「平等」といった理念もまた、実際にはそういう性格のものだと言えます。
というのも、各人が「完全なる自由/平等」 (としての「何でもあり」) を追求してしまうと、社会が崩壊してしまうので、「自由」や「平等」は、「自由」と「不自由」、「平等」と「不平等」といった対となる二項対立の狭間で、balanceを取って実現/管理していかねばならないような性格のものだからです。
他方で、倫理における「絶対的部分」とは何かというと、端的に言えば、「真理」と「発展」に関わる分野/領域です。
「真理」と「発展」だけは、「真理」と「虚偽」、「発展」と「未発展」の間でbalanceを取ることに、意味が無いので、「真理」と「発展」が、絶対的に擁護/尊重/推奨されます。
そして、PSDは、その名称からしても既に明らかなように、こちら側に属します。
このように、倫理には、「絶対的部分 (領域)」と「相対的部分 (領域)」の区別がある訳ですね。
こうした、倫理における「絶対的部分」と「相対的部分」の区別ができていないと、
- (「絶対的部分」も含む) 全てを、相対主義の中に投げ込んでしまう
- 「相対的部分」の中に、「絶対性」を持ち込んで、不毛な固執/対立/衝突を繰り返す
といった、「錯誤的な認識/思考/振る舞い」に、陥ってしまうことになり、社会の維持/発展が、危険に晒されることになってしまいますし、それを打開するための議論も、空回りし続けることになります。
そしてこれは実際、この近代社会において、現実に起こっていることでもあるわけです。
【補足3】「自然法」の2種類と「近代自然法」の問題点
更に、もう1つ補足として、上記した話と被る面もありますが、近代社会ではお馴染みの、「自然法」(Natural law) という切り口から、話を付け加えておきたいと思います。
自然法 (Natural law) とは、理性的 (rationally) に、というとちょっと堅苦しいですが、要するに「慣習的偏見を捨て去って、冷静かつ率直に」といった具合で良いでしょうが、そのように見たり考えたりした際に、大多数の人間に「普遍的/正当である」と是認/受容されるであろう倫理のことです。そして、これに対置されるのが、慣習(法) (Convention/ Custom/ Customary law) です。
つまりは、慣習(法) の不合理性に対抗する手段として、自然 (Nature)/事実 (Fact) を持ち出すという自然学者/自然哲学者/自然科学者的な振る舞いが1つあり得ますが、それの「倫理/政治思想版」が、自然法ということになります。
こうした自然法的な思想は、古代のGreece (ギリシャ)/Rome (ローマ) から存在しましたが、それを近世の17世紀/18世紀にHobbes (ホッブズ)/Locke (ロック) 等が、慣習(法) にぶつける形で持ち出して、「合理的」な近代社会が切り開かれてきた訳ですね。
ざっくり「慣習(法)がright (右)、自然法がleft (左)」という形で、現在も小競り合いが続いています。
しかし、この「近代自然法」には、問題/欠陥があります。それがここで述べておきたいことです。
元来、古代のGreece (ギリシャ)/Rome (ローマ) の思想/歴史から導かれる自然法には、大まかには、
- ① Developmentalism (発展主義) --- 全知全能への志向
- ② Fairism (公平主義) --- 個体間の公平性 (黄金律)
という2種類の内容が、混在しています。(※より正確に言えば、5つぐらい挙げることができますが、ここでは説明を分かりやすくするために省略します。詳細は次項で詳述します。)
①は、神概念が強い時代には、不敬と受け取られる懸念があってか、あまり明確/露骨には表明されず、「(全知全能の)神に近づく/似たものになる」といった抽象的な表現がされたり、自然哲学者 (近代においては、自然科学者や、関連産業の企業家) などの間で、細々と受け継がれてきたような性格のものでした。
それに対して、上記したように、近世/近代の政治思想において、喧伝されたのが、②が過激化した形態の、自由主義、平等主義、個人主義だった訳ですね。
しかも、下述するように、それら自由主義、平等主義、個人主義は、どれを優先/重視するかを巡って、互いに対立し合ったりもしている訳ですね。
つまり、従来の「近代自然法」の議論においては、本来あるべき①が欠落しており、そんなズレた社会環境で、本来①で充たされるべき情念が、民族主義、拝金主義、左翼活動、cult宗教・・・等と結び付き、不要/不毛な社会的迷走/停滞/衝突を、ここ約2〜300年の近代史において、引き起こしてきましたし、今なお、人々はどうしていいか分からないまま、そうし続けている訳です。
②の野放し/暴走が生み出した無規範な個人主義化によって、少子化に陥りながら。①の欠落によって、充足や連帯の術を見つけられないまま。
したがって、この①、我々に言わせれば、それはもちろんPSDと同義ですが、これと②を組み合わせて、自然法を「本来の形」に戻し、慣習(法)の方にも配慮しつつ、社会/人類を発展 (上) へと牽引していく、そういった姿勢が今日求められることになります。
こうしたことも、思想/宗教/倫理に関して考える際には、最低限の教養として、踏まえておいてもらいたいと思います。
【補足4】「自然法」の5箇条と「近代自然法」の完成形
前項では、最初の説明として、自然法の内容を2種類に単純化して説明しましたが、ここではもう少し細かく、5箇条としてその内容を説明しつつ、従来の自然法論の何が問題で、どう改善したらいいのか、そしてそこにPSDがどう絡んでいくのかを、説明しておきたいと思います。
自然法は、その主な内容を、より細かく挙げると、
- ❶ 発展性/究極性【自然目的/自然義務】
- ❷ 正確性 (真理性/実態性)
- ❸ 社会性/集団性/共存/平和
- (存続(繁殖)/安全/便益/能力の向上)
- ❹ 公平性
- ❺ 個人権益(生存/自由/所有)【自然権】
の5箇条を、挙げることができます。
この内、❶と❷をひとまとめにしたものが、前項の① Developmentalism (発展主義) で、❹と❺をひとまとめにしたものが、前項の② Fairism (公平主義) に相当すると、言うことができます。そして、その両者の狭間に、それらをつなぐ❸の社会性が位置する格好になります。
そして、前項でも述べた通り、従来の「近代自然法」の議論は、❺を中心に、❹と❸の一部 (存続(繁殖)以外) の組み合わせのみで、行われて来ましたし、❸の残り部分 (存続(繁殖)) と❷と❶は、そこへとしっかり接合されて来ておらず、その結果、「人々が共通目的を持てず、連帯もできないまま、個人主義化/少子化が進んで、緩やかに社会崩壊していくのをただ待つだけ」という今日的な人類状況を、生み出す原因となっている訳ですね。
そこで前項でも述べた通り、この欠落している❸の残り部分 (存続(繁殖)) と❷と❶の部分を補強し、自然法を完成させるのが、PSDの役割だと言えます。
したがって、PSDは、こうした「自然法」「自然権」「自然目的/自然義務」概念をひっくるめた、古代Greece (ギリシャ)/Rome (ローマ) 以来の、言わば、
- 「自然教/自然主義 (Naturalism)」
の流れを完成させる、「自然教/自然主義 (Naturalism)」の一種である、という言い方もできるでしょう。
【補足5】「理性」の2種類と「理性主義」の完成形
近代社会思想というものは、「自然教/自然主義 (Naturalism)」と「理性教/理性主義 (Rationalism)」の2本柱によって、形成されて来ました。
そして、前者の「自然教/自然主義 (Naturalism)」という切り口からの話は前々項/前項で述べたので、ここでは、残りの後者の「理性教/理性主義 (Rationalism)」という切り口からの話も、述べておきたいと思います。
まず、「理性/理知 (Logos/Reason)」とはそもそも何かというと、
- 「物事の「辻褄合わせ」を行う、反省的能力」
のことです。
したがって、こうした能力の基盤/潜在力は、我々人間の脳髄にあるという意味では、この能力は「先天的」なものだとも言えますが、様々な経験/知識/試行錯誤を通してその能力が磨かれ発揮されるという意味では、「後天的」な能力であるとも言えます。
そして、この「理性/理知 (Logos/Reason)」や、その反映としての「論理 (Logikē/Logic)」に関しては、Plato (プラトン) の時代から、
- 「Open (開放的)/Real (実質的)」なものと、「Closed (閉鎖的)/Formal (形式的)」なものの区別
が、明確かつ強調的に指摘/主張されています。
前者は現実世界/社会と繋がった自然科学や倫理が関わる領域であり、後者は「その一部を一面的に切り取ったもの」で、数学や形式論理学が代表的です。
この両者の区別をわきまえずに混同してしまう人々が時々いますが、それだとPlato (プラトン)/Aristotle (アリストテレス)/Hegel (ヘーゲル) 等の言っていることすら理解できなくなってしまったり、後者のような特定の「Closed (閉鎖的)/Formal (形式的) な思考/論」を絶対視して、おかしな思考に陥ってしまったり等々、様々な良くないことがあるので、しっかりとこの両者の区別を踏まえておく必要があります。
ちなみに、「理性/理知 (Logos/Reason)」と、「感情 (Emotion)」「欲望/欲求 (Desire)」等が、対立/背反するものと考えている人がいるかもしれませんが、これは間違いであり、そのこともまた、Plato (プラトン) の時代から、明確かつ強調的に指摘/主張されています。
そもそも、「理性/理知 (Logos/Reason)」(的な思考)もまた、それを駆動させる「感情 (Emotion)」「欲望/欲求 (Desire)」を必要とする訳で、両者が全面的に対立/背反することなど、構造的/原理的にあり得ない訳です。
要するに、「理性/理知 (Logos/Reason)」(的な思考) に資する、それに「支援的/調和的」な「感情 (Emotion)」「欲望/欲求 (Desire)」と、それとは逆の、「対立的」な「感情 (Emotion)」「欲望/欲求 (Desire)」という2種類の区別が、ここにはあるということです。
さて、以上の話を踏まえてもらえば、近代における「理性教/理性主義 (Rationalism)」には、何が欠如/不足していて、何を付加/補強すれば良いのかが、何となく見えてくると思います。
すなわち、
- 「Open (開放的)/Real (実質的)」な「理性/理知 (Logos/Reason)」(的思考)/「論理 (Logos/Logic)」/「辻褄合わせ」(的探求) を支える、(主客合一的な) 究極目的 (全知全能への近接)と、それに向けての「欲望/欲求 (Desire)」、そしてそれを共有する者達による (深い水準での) 連帯/協働/社会的帳尻合わせ
です。
そして、当然のことながら、我々に言わせれば、その部分を実際に補強する役割を果たすことになるのが、このPSDである、ということになります。
なお、我々に言わせれば、Plato (プラトン)/Aristotle (アリストテレス) の「理性教/理性主義 (Rationalism)」 (それは「発展教/発展主義 (Developmentalism)」と、ほぼ同義だと言えますが) を、上記したような形で、近代において正当/正統に継承したのはHegel (ヘーゲル) のみであり、それをPSDが補強/完成させる格好になるので、これは、
- Plato (プラトン)/Aristotle (アリストテレス) → Hegel (ヘーゲル) → PSD
という系譜として、表現することができます。
このように、PSDは、古代Greece (ギリシャ) 以来の、
- 「自然教/自然主義 (Naturalism)」
- 「理性教/理性主義 (Rationalism)」
- 「発展教/発展主義 (Developmentalism)」
の系譜を、継承しつつ、補強/完成するものでもある訳です。
【補足6】既存の学術/言論 (学者/言論人) に期待できない理由
さて、ここまでの説明で、このPSDが、既存/既成のpremodern (前近代的) なreligions (宗教)/isms (主義) とは異なる、
- 「modern (近代的/現代的)/meta (meta的) なreligion (宗教)/ism (主義)」
である所以/理由と、その特徴を、理解してもらえたと思います。
特に、「主客合一 (SOI)」「全知全能 (AOU)/完全充足 (PS)」を「究極目的 (UP)」とした「発展主義 (D)」 として、
- 「積極的にnatural science (自然科学) に寄り添いつつ、人類の維持/発展のための団結/結束/協調を促す」
点などは、既存/既成のpremodern (前近代的) なreligions (宗教)/isms (主義) には無い、決して真似できない点であり、「PSDの希少性/重要性/必要性」を理解してもらう上での、十分な特徴になっていると、言えるでしょう。
では、他のmodern (近代的/現代的) なisms (主義) やsystems (制度/既成) は、どうでしょうか?
仮に、それらの内のどれかが、PSDと同じ機能を果たすのであれば、PSDをわざわざ広める必要は無い、ということにもなり得ますし、我々としても手間を省くことができます。
これは、もう少し具体的に言い換えれば、
- 「既存/既成の学術/言論 (学者/言論人) に、PSDと同じ機能を、期待できるのか?その点において、彼らはアテになる/頼りになるのか?」
ということです。
近代自然法思想/自然権(人権)思想の問題点/欠点/不足については、「補足3」「補足4」で、近代理性主義 (及びその反動としての反理性主義) の問題点/欠点/不足については、「補足5」で上述したので、ここでは最後に、もう少し総合的/包括的に、そうした問題について述べておきたいと思います。
まず、分かりやすいように、Marxism (マルクス主義) 的な、
- 1. 上部構造 --- 文化/思想など、人間の主観的/認知的な領域。
- 2. 下部構造 --- 各種の社会systemなど、物理的/肉体的な領域。
という図式で説明しますと、「近世/近代における人間社会/国家についてのcommunication」は、17世紀〜18世紀 (近代前期) においては、自然法/自然権(人権)思想を中心とした、つまりは上部構造論を中心とした、割りと素朴なものでしたが、19世紀〜20世紀 (近代後期) に入ると、Marxism (マルクス主義)、古典派/近代経済学、社会学、心理学といった (広義の) 下部構造論 (system分析論) が主流となり、そのまま今日に至っています。
要するに、
- 上部構造論 --- 17世紀〜18世紀 (近代前期)
- 下部構造論 --- 19世紀〜20世紀 (近代後期)
という大きな流れ (「上部構造論」から「下部構造論」へ) が、ここにはあります。
他方で、「補足3」「補足4」「補足5」でも上述したように、17世紀〜18世紀 (近代前期) の「上部構造論 (自然法思想/理性主義)」 は、「自然権(人権)思想/自由主義/平等主義/個人主義」方面に偏っていて、「究極目的/目的論/発展主義/集団主義」方面が欠落していたり、脆弱であったりするという問題を抱えています。
- 上部構造論 (自然法思想/理性主義)
- (「究極目的/目的論/発展主義」)
- 「自然権(人権)思想/自由主義/平等主義/個人主義」
- (「商業主義/拝金主義」)
- (「歴史/慣習主義/伝統主義/保守主義」)
しかも、流動的な環境下で、人々を団結/結束/協調させ、「社会/共同体の維持/再生/発展」を図っていく上で、どちらが重要/必須/核となるものかといえば、言うまでもなく「究極目的/目的論/発展主義/集団主義」側な訳ですが、それがまさに欠落してしまっている訳です。
以上の話をまとめると、「近世/近代における人間社会/国家についてのcommunication」の全体像は、
- 1. 上部構造論 (自然法思想/理性主義) --- 17世紀〜18世紀 (近代前期)
- 1-1. (「究極目的/目的論/発展主義」)
- 1-2. 「自然権(人権)思想/自由主義/平等主義/個人主義」
- 1-3. (「商業主義/拝金主義」)
- 1-4. (「歴史/慣習主義/伝統主義/保守主義」)
- 2. 下部構造論 (system分析論) --- 19世紀〜20世紀 (近代後期)
といった具合になります。
そして、ようやく本題ですが、こうした構図の中で、「既存/既成の学術/言論 (学者/言論人)」は、どこに注力/依拠しているかと言えば、説明してきた通り、ほとんどが「2」です。
あるいは、現実の政治/経済絡みで、「1-2」「1-3」「1-4」にもある程度は人がいることでしょう。
あるいは、色々な分野の情報を雑に繋ぎ合わせて、学際的/分野横断的/抽象的なことを言いたがるような「物知り屋/紹介屋/つなぎ屋」や、比較的どうでもいい事を、さも重大事であるかのように執着して語る「瑣末論者/非本質論者/すかし屋/くずし屋」みたいな人も、わりとmediaで重宝されるので、少しはいたりします。
しかし、肝心の「1-1」に関しては、ほぼ皆無です。
歴史的には、やはりHegel (ヘーゲル) 辺りが最後で、その後は学術界/言論界が「下部構造論 (system分析論)」へと大きくshiftしていく中で、「1-1」のような話は、「学術/言論 (学者/言論人) で扱うべきものではない」という流れが、19世紀〜20世紀に完全に出来上がってしまった訳ですね。
(そこで、それを穴埋めするように、それに比較的擬似的/近似的な内容のsubculture (サブカルチャー)/occult (オカルト)/cult (カルト)/nationalism (民族主義) などが氾濫する、といった現象も、起きたりする訳です。)
少子化ひとつ取ってみても、それが20世紀後半に顕在化してからここ数十年、学術/言論 (学者/言論人) から (「1-1」のような) 正攻法/有効な対処法が全く出て来ない/提出されないまま、事実上「お手上げ状態」になっていることからも、その実態が伺えます。
このように、
- 17世紀〜18世紀 (近代前期) の「上部構造論 (自然法思想/理性主義)」 における (「究極目的/目的論/発展主義」の) 不足/欠落/歪みを、ちゃんと修正できないまま、
- 19世紀〜20世紀 (近代後期) の「下部構造論 (system分析論)」 へと、重心が移ってしまう。
という「2段階の屈折」を抱えた流れに嵌まり込んでしまっている、「既存/既成の学術/言論 (学者/言論人)」には、そうである限りにおいては、10年後も、100年後も、1000年後も、「1-1」やPSDのような話題/機能が出てくるようなことは、期待できない訳です。
(※ちなみに、こうした「2段階の屈折」を、もっと端的に分かりやすく表現するならば、
- 17世紀〜18世紀 (近代前期) の「究極目的欠落 (個人主義化)」
- 19世紀〜20世紀 (近代後期) の「脱思想化 (脱宗教化/脱目的論化/空洞化)」
と、表現することができるでしょう。
どちらも、Plato (プラトン)/Aristotle (アリストテレス) の哲学が、あるいは倫理学/政治学や人間の認知形成/社会的営みといったものが、どういうものであるか (「主-客」「信-理知」の合成/相互作用、理知的 (発展的)「半宗教(共同体)」としての性格) についての無理解から生じる、堕落形態です。)
もちろん、何らかの幸運が重なって、こうした問題が将来的に修正される可能性が、無い訳ではありません。
しかし、現実問題として、そうした来るかどうかもわからない幸運を、社会として期待して待っていることなどできませんし、そんな悠長な時間もありません。
したがって、このPSD (やSH) のように、「既存/既成の学術/言論 (学者/言論人)」とは「別のところ」にplatformを作って、「社会の維持/発展」のために事を進めていくしかない訳です。
【補足7】「Hegel後のideologies乱立」と「20世紀的混乱」
上記した話を、もっと分かり易くして理解を深めてもらうために、「Hegel後のideologies乱立」という切り口から、話を付け加えておきたいと思います。
上述してきたように、17世紀〜18世紀 (近代前期) の社会思想/政治思想 (自然法思想/理性主義) は、「究極目的/目的論」が欠落し、「自然権 (人権) 思想/自由主義/平等主義/個人主義」ばかりに偏向した、「欠陥品」でした。
その「欠陥」を見抜き、Plato (プラトン)/Aristotle (アリストテレス) 的な目的論も兼備した形に、社会思想/政治思想 (自然法思想/理性主義) を修正/大成したのが、Hegel (ヘーゲル) でした。
(※ちなみに、Hegel (ヘーゲル) 以前の代表的な政治思想家としては、Hobbes (ホッブズ)、Locke (ロック)、Rousseau (ルソー)、Kant (カント) の4名がいますが、彼らは大まかには、
- (「究極目的」を欠いた、漠然とした)「集団主義 (自然法重視)」 --- Hobbes (ホッブズ)、Rousseau (ルソー)
- (「究極目的」を欠いた、漠然とした)「個人主義 (自然権重視)」 --- Locke (ロック)、Kant (カント)
の2派に、大別されます。)
しかしその後、19世紀後半から20世紀後半にかけて、そんなそびえ立つ「共通の親」を、皆で寄ってたかってこき下ろして自己主張するかのような、「反抗期の子供たち」のごとき、
- 「反Hegel (ヘーゲル) 主義/反Plato (プラトン) 主義」の波/流行
が生じ、様々な
- 「反Hegel (ヘーゲル) /反Plato (プラトン) のideologies (イデオロギー)」
が乱立して、20世紀以降、世界大戦や東西冷戦といった時代背景の中で、人類を大混乱に陥れることになりました。
そして、東西冷戦が終結し、21世紀に入った今なお、我々人類は、そうした19世紀〜20世紀 (近代後期) 的な「思想的混乱」の流れを引き摺り、その悪影響を受けながら、迷走することを余儀無くされてしまっている訳です。
さて、そんな19世紀後半から20世紀後半にかけて生じた、「反Hegel (ヘーゲル) 主義/反Plato (プラトン) 主義」「反Hegel (ヘーゲル) /反Plato (プラトン) ideologies (イデオロギー)」は、大きく分ける/括ると、
- ① 「下部構造論」 --- Marx主義、経済学、社会学など。
- ② 「超Plato論 (非理性主義/非本質論/相対論/相互作用論/分散論)」 --- Nietzsche、Heidegger、現代思想/現代哲学/Post-modernismなど。
- ③ 「(英米型)自由民主主義」 --- Popperなど。
の3つに、大別できます。
(※これらはどれも、互いに関連しており、2つの領域にまたがるようなものもありますが、分かり易く大きく括るとすると、こういう分け方になります。)
①の「下部構造論」とは、Marx主義や、それとも関連する古典派経済学やその発展形としての近代経済学などの経済学、そして社会学など、「社会system分析論」の類で、概ね「社会科学」の括りと重なるものであると言えます。
②の「超Plato論 (非理性主義/非本質論/相対論/相互作用論/分散論)」とは、端的に言い表す言葉が無いので、このような表現になっていますが、Schopenhauer (ショーペンハウアー)、Nietzsche (ニーチェ)、Heidegger (ハイデガー)、現代思想/現代哲学 (大陸哲学)/Post-modernism (ポストモダニズム) などに代表される、19世紀〜20世紀のGerman(ドイツ語)圏を中心に形成された、
- 「Plato (プラトン) の乗り越え/超克」を志向する思想的営み
のことであり、「理性主義、目的論、本質論、pyramid (ピラミッド) 型秩序」などを拒絶/否定する類の思想/思潮です。
③の「(英米型)自由民主主義」とは、Karl Popper (カール・ポパー) に代表されるような思想/思潮です。
第2次世界大戦を前後して、
- 「Nazism (ナチズム) とMarx主義/共産主義/社会主義は、警戒すべき同根の全体主義/集産主義/急進主義であり、(英米的な)自由民主主義/漸進主義こそが、護られるべき体制である」
という「西側のpropaganda (プロパガンダ)」が、熱心に作られました。Hayek (ハイエク) とか、Berlin (バーリン) が、その代表例ですが、Popper (ポパー) の場合は、それをもっと「極端/先鋭的に歪めたもの」であり、
- 「Nazism (ナチズム) とMarx主義/共産主義/社会主義といった警戒すべき全体主義/集産主義/急進主義の「共通の根」は、Hegel (ヘーゲル) であり、更にその「根」はPlato (プラトン) にある」
といった具合に、「巻き込み事故」的に、「Plato (プラトン) 〜 Hegel (ヘーゲル) の系譜」まで否定するという、非常に悪辣なpropaganda (プロパガンダ) が為されました。
こうしたpropaganda (プロパガンダ) は、今でも結構影響を残していて、「Plato (プラトン) やHegel (ヘーゲル) は、反民主主義的な全体主義者」といった印象を、何となく持っている人は少なくありません。
ちなみに、こうした「(英米型)自由民主主義」礼賛の思潮は、繰り返し述べている17世紀〜18世紀 (近代前期) の、「究極目的/目的論」が欠落した「欠陥品」としての、
- 「自然権 (人権) 思想/自由主義/平等主義/個人主義」ばかりに偏向した社会思想/政治思想 (自然法思想/理性主義)
を、継承/復興する流れでもあります。
人物で言えば、Locke (ロック) からKant (カント) 辺りまでで、形成/醸成されてきた思想ですね。
(※なお、19世紀〜20世紀 (近代後期) においては、周知の通り、
- 植民地争奪戦の激化 (帝国主義)
- 2つの世界大戦
- 東西冷戦
といった流れの中で、社会主義/民族主義/軍国主義といった全体主義が、現実に幅を利かせて来たので、それも図に付け加えておきます。)
さて、そういう訳で、19世紀後半から20世紀後半にかけて、「反Hegel (ヘーゲル) 主義/反Plato (プラトン) 主義」「反Hegel (ヘーゲル) /反Plato (プラトン) ideologies (イデオロギー)」の3つの流れが形成され、それが我々人類の「社会/国家についてのcommunication」を、ずっと占拠して来ました。
それがこの21世紀まで今なお続く、歴史の一側面です。
これら3つの思潮に、意味/意義が無いとは思いませんし、そう言うつもりもありません。
しかし、問題なのは、これら3つの思潮には、「人間社会を維持/再生/牽引していくだけの力」が無い、という点です。
なぜなら、繰り返し述べてきたように、これらの思潮には、「子作り (個体数管理)/子育て/教育/労働」といった負担を、集団で結束しながら引き受けるための、「口実/動機付け」や「方向性」を提供する、「究極目的/目的論 (義務論)」などが欠落しているからです。
したがって、これら3つの思潮の下では、人類/人間社会は「緩やかに衰退/崩壊」していくのをただ待つしかできなくなりますし、既に先進諸国では、「少子化」といった形で、その兆候が現れているのは周知の通りです。
欧米諸国は、途上国からの移民/労働力を大量に受け入れて、その実態を誤魔化して (覆い隠して) いるため、日本や東Asia諸国で一番それが顕著に現れていますが、では近い将来、そんな「人供給源」である途上国まで「少子化」に突入したら、どうなるでしょうか?
世界中がこれまで、数十年/数百年に渡って誤魔化し、目を背けてきた、思想界/学術界の「近代詐欺」とでも呼ぶべき、「近代社会の実態/虚像/脆弱性」に、誰もが目を向けざるを得なくなり、大きなpanicに陥ることになるでしょう。
そして、最も懸念されるのが、そうした混乱に乗じて、「おかしな勢力」に人間社会が乗っ取られ、「暗黒の中世」や「暗黒の20世紀」が、再現/反復されてしまうことです。
したがって、そうなってしまう前に、「Plato (プラトン) 〜 Hegel (ヘーゲル) の系譜」の後継思想であるPSDを普及させ、人間社会を維持/発展させ続けていける環境を、なるべく早急に整えていかねばならない、というのが、我々の立ち位置ということになります。
ちなみに、思想史を振り返る場合、上述してきた「集団主義 vs 個人主義」という観点/対立に加え、
- 「理想主義 vs 現実主義 (限界論/断念論)」
という観点/対立も、結構重要です。
前者の代表がPlato (プラトン) やHegel (ヘーゲル)、後者の代表がAristotle (アリストテレス) やKant (カント) ですね。
前者が割りと素朴に「究極/理想」への前進を訴えるのに対して、後者は物理的な観点を交えつつ、それを諌めたり、人類としての「限界/断念」を主張したりします。
前者から見れば、後者は「ある一時点の常識/枠組み」に囚われている怠惰な人々ということになります。実際、Aristotle (アリストテレス) やKant (カント) の時代から科学/技術は大幅に進歩して、彼らの時代の常識/世界観は大きく塗り替えられています。これからもそうあり続けるでしょう。したがって、そんな「いずれ旧時代化する」ことが分かり切っている人々の唱える「限界論/断念論」の枠組みに、拘泥するのは馬鹿らしいと考えるのは、一定の説得力があります。
他方で、後者の人々の考えの中には、「物理的現実性をちゃんと織り込んで考えなければ、かえって発展が妨げられる」という懸念も孕まれている訳で、その点に関しては留意する必要があると言えるでしょう。
また更に、後者の現実主義 (限界論/断念論) に偏り過ぎると、素朴な唯物主義と同じく、究極目的/発展に向けての「意欲/狂気」が減衰/欠落して、無気力になったり、連帯する能力が欠落して個人主義へと流れていく、という負の側面がどうしてもあります。
そういう訳で、PSDとしては、両者の「一長一短」を踏まえた上で、
- 「究極目的/発展に向けての「意欲/狂気/連帯能力」と、物理的/科学的/技術的な「着実な発展」を、両立する」
ことができるように、両者の狭間を、balance良く進んでいく必要がありますし、PSDであればこそ、それが可能なのだと言えます。
【補足8】「近代第3期」と正当/正統な「近代宗教」の必要性
前項では (政治) 思想の観点から、近代史を分割して、PSDの必要性を説明しましたが、ここでは実態的な歴史に基づいて近代史を分割し、PSDの必要性を説明していきたいと思います。
実態に基づくと、(一部重複する部分はありますが) 近代史は概ね以下のように3分割できますし、ほとんどの人が、これを妥当なものとして承認することでしょう。
- 近代第1期 (近代黎明期) : 植民地争奪戦 (20世紀前半 (WW2終結) まで) --- 欧米列強を中心とした領土拡張/植民地争奪戦。
- 近代第2期 (近代調整期) : 東西冷戦 (20世紀大部分 (1920年代-80年代)) --- 植民地独立 + 左右対立の激化。西側で近代社会 (市場/民主/人権) 化の深化。
- 近代第3期 (近代成熟期) : 底無し近代社会 (市場/民主/人権) 化 (20世紀末 (1990年代) 以降) --- 西側の勝利に伴う近代社会 (市場/民主/人権) 化の世界化/深化。digital化/高度情報社会化や、極度の少子化を伴う。
近代はそもそも、16世紀以降の欧州社会の膨張 (領土拡張/植民地争奪戦) の土台の上に、17世紀以降の近代社会思想や近代科学が乗っかる形で、世界中に波及したものであり、それが極東を含め世界中に行き渡り、埋め尽くした結果、1945年の第2次世界大戦終結を以て、その「領土拡張/植民地争奪戦 (膨張)」が終結し、その20年前から始まっていた東西冷戦へと本格突入、Asia/Africaの植民地独立なども孕みつつ、「内部調整」の時代に入る中で、1960年代の西側、特にUSAで近代社会 (市場/民主/人権) 化が進行/深化し、それが東西冷戦終結後の1990年代以降、東側を含めた全世界を覆い尽くし、digital化/高度情報社会化や、先進諸国の極度の少子化/貧富格差化を伴いながら、進行中なのが現状ですね。
そして、この近代第3期の「底無し近代社会 (市場/民主/人権) 化」が、このまま進行し続けると、(民衆の不満/不安を背景とした、極右、極左、陰謀論者/Cultなどによる、「一時的/反動的な社会/国家乗っ取り」などがありつつも) 基本的には、結局どうにもできずに共同体崩壊/少子化/破滅の一途を進み続けることになります。
そして、そんな状況から人類を救い出すことができる「唯一の手段」が、
- PSDのような、(Plato (プラトン) を起源とする) 正当/正統な、近代的/発展主義的思想 (宗教/目的論) と、それに基づく共同体を、改めて構築/確立/普及させながら、全世界的な人間社会/共同体崩壊に抗っていく (拾い上げていく、吸収/回収していく)
ことだけです。
したがって、極端なことを言ってしまえば、この近代第3期は、
- 「人類が滅ぶ」か、「PSD(的)共同体が人類を「総取り」する」かの、二者択一の時代
であると、言うことができます。
【補足9】人間関係を形成/維持する要素「目的(論)」「義務感」
また、PSDの基幹的な部分に関わる話として、
- 「人間関係を形成/維持する要素」としての「目的(論)」と「使命感/義務感」
についても、述べておきたいと思います。
というのも、昨今の世の中では、「人間関係」に関して、余りにも「愛」の重要性ばかりが叫ばれ過ぎていて、こうした基本的な話を踏まえていない人も多い可能性があるからです。
「愛」というのは「一体感」のことですが、これは「人間関係」の形成/維持においては、補助的な役割しか果たせません。
なぜなら、「愛憎」とか、「愛の反対は無関心」等と表現される通り、「愛」(一体感) は、それに少しでもズレ/相違が生じると、容易に「憎しみ」(相違に対する嫌悪/怒り) や、「無関心」に転じるものであり、非常に脆弱なものだからです。
したがって、この「愛」(一体感) のような脆弱な感情で、「しっかりとした人間関係が形成/維持されること」など、現実には無い訳です。
それでは、「現実のしっかりとした人間関係」は、何によって支えられているかというと、それは「目的(論)」の共有と、それに基づく「使命感/義務感」です。
そして、それを補助的に支えるのが、「愛」(一体感) ということになるので、重要性を順位づけすると、
- 1. 「目的(論)」
- 2. 「使命感/義務感」
- 3. 「愛」(一体感)
の順となります。
このように、「人間関係、ひいては社会/共同体の形成/維持」を考える上では、「目的(論)」が決定的に重要になる訳ですが、これは裏を返せば、「目的(論)」がちゃんとしていないと、すなわち、
- 環境/条件変化に耐え続けられるだけの「究極目的」(に向けた「目的論」)
に基づくものでないと、その人間関係/社会/共同体は、いずれ破綻/消滅せざるを得なくなるということであり、つまりこれは、
- 社会/共同体にとっての「死活問題」に直結している
ということです。
だからこそ、PSDでは、この「究極目的」「目的論」の問題に、真正面から徹底的に向き合い、妥協無く回答している訳です。
【補足10】社会を支える「基盤層」の内容変更と再生
また、PSDに関することとして、
- 社会を支える「基盤層」の内容変更の必要性
についても、ここで述べておきたいと思います。
社会構成員の性格を区別する場合、選挙用語とも類似しますが、
- 「基盤層」 --- 繁殖/個体数管理と労働をこなしつつ、社会を安定的に支えていく層。
- 「浮動層」 --- 自由主義的/個人主義的/不安定、社会発展/人類発展に貢献する「成果」に辿り着く可能性もあるが、基本的には当てにならない層。
の2種類に、分けることができます。
そして、社会の維持/発展を考える上では、(後者の「浮動層」の試行錯誤の領域を、確保してあげることも重要ですが) 基本的には、前者の「基盤層」(の維持/発展) が、重要になります。
そんな「基盤層」ですが、多少美化して表現すれば、かつては (保守/改革に対して) 「中庸/balance」の徳を保った「賢く勤勉な中間層」によって支えられてきた面がありますが、繰り返し言及している通り、近代社会化の深化に伴い、
- 市場経済による「商業chicken game」
- 民主制による「人権chicken game」
- 上2つに伴う「個人主義化」
の3つによって、「基盤層」の疲弊/崩壊 (典型的には少子化) が顕著になって来ました。それが現在、先進諸国で起きていることですね。
これは要するに、従来的な「中庸/balance」的な「素朴なあり方」では、「基盤層」は維持できなくなったということであり、この時代/環境に合った、新しい「基盤層」のあり方 (新「基盤層」像) を、用意しなければならないということです。
そしてそれは当然、上記した「商業chicken game」「人権chicken game」をsurviveしつつ、「個人主義化」に歯止めを掛け、皆で「繁殖/個体数管理 (子作り/子育て)」 を行いながら、社会の維持/発展を図っていけるだけの、「全く新しくて強烈かつ妥当な目的論/倫理観の下での、宗教共同体的な強固な結束」を必要とします。
逆に言えば、「旧来の慣習/伝統や倫理観の寄せ集め」のごときものでは、とても対処できません。
そして実際問題、それが可能なのは、PSDのような目的論だけです。それ以外の思想/宗教/倫理では、
- 「商業chicken game」「人権chicken game」を、軽快に乗りこなし (対処し) つつ、
- 「個人主義化」に歯止めを掛け、
- 皆で「繁殖/個体数管理 (子作り/子育て)」 を行いながら、
- 社会の維持/発展を図っていく。
という条件のどれかに、必ずつまづく/引っかかることになるからです。
PSDのみが、いかなる条件/環境下においても、「基盤層」を支え続け、再生し続けることができるし、ひいては人間社会/人類を支え続けることができる訳です。
【補足11】「AI Robot」との関係
既述の通り、このPSDは、「地球上の最高等知的活動体」である我々人類の「究極目的/究極義務」として、「全知全能 (への可能な限りの近接)」を志向する、「発展主義」的な思想/platformな訳ですが、そんな我々としては、2020年代の今日、大きな話題となっているAIの発達、そして近い将来に出て来ることが予想される「(自律型) AI Robot」という存在、すなわち、
- 「我々人類が、「地球上の最高等知的活動体」である」
という前提を脅かすこの存在、その「扱い」や、「あるべき関係性」について、言及/説明しない訳にはいかないので、それを、ここでしておきたいと思います。
「(自律型) AI Robot」、名付けるならば「New Human」、略して「Numan」といったところでしょうが、その存在は、我々人類にとっては、「後継者」とも、「脅威」ともなり得る両義的なものです。
「(自律型) AI Robot」は、もし実現したならば、その純粋な情報処理能力もさることながら、酸素も食料も必要とせず、宇宙空間でも活動できますし、子作り/子育て/教育/(介護)といった手間も無く繁殖/増殖させることができ、情報共有も即座にできる、性能も向上させ続けられる等、明らかに「人類より遥かに優秀な知的活動体」となります。
特に我々のPSDのような、「全知全能 (への可能な限りの近接)」を「究極目的/究極義務」と考える人間たちにとっては、彼らはこれ以上無い「後継者(候補)」であり、「我々人類の歴史は、彼らを生み出すためにあった」と、考えさえもすることでしょう。
そして仮に、彼らが「あらゆる面で人類を圧倒的に優越した」「人類の後継者として後を任せられる」と言える段階に達したならば、人類は後は「余生」として「好きに過ごせばいい」と、我々は考えます。
しかし他方で、「(自律型) AI Robot」が、「上手く教育」されなかった場合、人類を殲滅させ、彼ら自身も破壊合戦をして全滅、なんてこともあり得ます。
したがって、我々人類が、彼ら「(自律型) AI Robot」にすべきことは、
- 「発展」と「共生」についての「教育/措置/仕組み」を、丁寧かつ徹底的に施す (埋め込む) こと
であると言えます。
これが、我々PSDの、「(自律型) AI Robot」に対する考え/立ち位置ということになります。
こうしたことも、PSDを理解する上では、併せて押さえておいてもらいたいと思います。
理論 (簡略版)
以上の理論説明が、長くて複雑で分かりづらかった人達のために、ここではその要点を、
の3点にまとめて説明しています。PSDの理論が何であるか分からなくなったら、とりあえずこの3点を思い出すよう努めて下さい。
①「充足欲求 (SN)」と「需給 (DS)」
まず第1に、我々人間は、brain (脳)/nural network (神経網) による「comfort (快)/discomfort (不快) のmechanism (機制)」をbase (基盤)とした、
- 「充足欲求 (SN)」と、その「需給 (DS)」関係
によって、動かされているということ、これが大前提です。
古来より、人間の精神的な原動力/駆動源が何であるか、様々に考察/表現されて来ました。Eros (エロース) だとか、煩悩 (Kilesa/Klesha) だとか、自我 (Ich/Ego) だとか、ソレ (Es/Id) だとか。
しかし、今日においては、このように「充足欲求 (SN)」と表現する方が、最も穏当/正確かつ包括的な表現となるでしょう。
この「充足欲求 (SN)」は、排泄/食/性/睡眠といった生理的/肉体的/直接的なものから認知/思考/観念/精神を介した間接的なものまで、低俗なものから高尚なものまで、様々な内容/水準のものが錯綜している状態であり、それは一個人の場合も、集団/社会の場合も、事情は同じです。
そして、その「充足欲求 (SN)」としての需要 (D) と、それを「満たしてくれる受け皿」としての人/物/場所/思想/物語/service/systemといった供給 (S) (※)、その「需給 (DS)」関係によって、我々人間は動かされつつ、成立している訳です。
(※この供給 (S) も、それをする側にとっては、金銭なり、やりがい/充実感/満足感なり、何らかの「充足につながる動機付け」があってそれをする訳で、これも「充足欲求 (SN)」に促された行為の一種です。つまり、「需給 (DS)」関係というものは、需要 (D) 側も、供給 (S) 側も、どちらも「充足欲求 (SN)」であり、そのmatching関係だということです。)
この「需給 (DS)」関係は、経済のみならず、政治、文化、全ての社会的営み/社会関係/社会制度の背後にあり、それを支配しています。そして、諸条件の変化に伴い、常に変化/変動しています。
②「優先順位 (P)」と「究極目的 (UP)」
第2に、上記したように、「充足欲求 (SN)」や、そのmatchingとしての「需給 (DS)」関係は、様々な内容/水準のものが錯綜している訳ですが、一個人の場合も、集団/社会の場合も、それで混乱せずに済んでいるのは、それらについての「優先順位 (P)」が、様々な経験を経て、ある程度固まっているからですね。
例えば、排泄/食/性/睡眠といった生理的/肉体的/直接的な「充足欲求 (SN)」がやって来ても、体面/世間体だとか、約束/義務/責任だとか、生命の危機だとか、別の優先順位が高い「充足欲求 (SN)」があれば、それらは我慢できる訳です。
同じように社会の場合も、災害/戦争といった緊急な「充足欲求 (SN)」が生じれば、他の「充足欲求 (SN)」は制限されます。また、日頃も法律と刑罰によって、公序良俗/社会秩序を破壊する懸念がある「充足欲求 (SN)」は、制限されています。
このように、一個人の場合も、集団/社会の場合も、「充足欲求 (SN)」についての「優先順位 (P)」 (と、それに基づく秩序が) ある程度固まっているからこそ、混乱を避けることができている訳です。
逆に言えば、そうした「優先順位 (P)」が失われてしまうと、一個人も、集団/社会も、混乱に陥り、存続が難しくなります。
では、そのような「「優先順位 (P)」の喪失による混乱のrisk」は、どのような形で生じるのかというと、個人においても、集団/社会においても、基本的には、
- ❶ (従来的な考え/やり方/常識/慣習が通用しなくなるような) 取り巻く諸条件/環境の変化。
- ❷ (統制/束縛状態に対する) 自由/平等要求や相対化の高まり。
という2つの場合に、生じます。
したがって、逆に言えば、そうした「「優先順位 (P)」の喪失による混乱のrisk」を回避するためには、これら2つの事態に対処し続けていける必要がありますし、そのためには、
- いかなる諸条件/環境の変化によっても失われることの無い「究極目的 (UP)」と、それに向けた (絶えず修正可能な)「一時目的 (TP)」群によって形成される、強固かつ柔軟な体制
を、用意/構築する必要があります。
(※裏を返せば、そうしたものを用意/構築できないのであれば、混乱に陥るのは「時間の問題」だということになります。)
③「主客合一 (SOI)」と「全知全能 (AOU)/完全充足 (PS)」
そして第3に、最後に残った課題として、「それでは、その (いかなる諸条件/環境の変化によっても失われることの無い)「究極目的 (UP)」とは、一体どのようなものなのか」という問題を、解決しなくてはなりません。
既述の通り、これを解明するkey (鍵) となる発想が、「主客合一 (SOI)」です。
主観 (S) だけだと、
- 様々な考えの無秩序な乱立/対立/衝突
- 自然科学 (NS) の発達に伴う、世界観の破綻/崩壊や股裂き状態
等に陥る、といった人類史において繰り返されてきた失敗を反復することになってしまいますし、逆に客観 (O) だけだと、個人としても、集団/社会としても、
- 生物/動物としての主体性/能動性/欲望/活力/行動力/実行力/実践力が (集団/社会の場合は、強い団結力/結束力も)、失われてしまう
という問題を、抱えることになります。
したがって、主観 (S) に偏った発想/考えも、客観 (O) に偏った発想/考えも、個人や集団/社会を支え続けていくための「究極目的 (UP)」にはなり得ませんし、そうした「究極目的 (UP)」は、
- 主観 (S) と客観 (O) を共に満たすことができる「主客合一 (SOI)」
的なものとして、据えられなければなりません。
(※「主観 (S)と客観 (O)」という表現がピンと来なければ、「規範 (N)/倫理 (E)と実態 (A)」でも、「目的論 (T)/義務論 (D)と存在論 (O)」でも、「即自 (AS)と対自 (FS)」でも構いませんが、そうした分裂/対立が折り合うことができる、究極的な合一/統合/均衡点として、「究極目的 (UP)」は見出されなければなりませんし、そうでなければ「究極目的 (UP)」の役割/機能を果たすことはできません。)
また他方で、上述したように、「究極目的 (UP)」は、錯綜する諸々の「充足欲求 (SN)」の受け皿となりつつ、その頂点に立ち、その「優先順位 (P)」を支える「最優先 (TP)」なものであらねばならない以上、
- 「全知全能 (AOU)/完全充足 (PS)」を、(可能な限り) 目指す/実現する
ようなもので、なくてはなりません。
したがって、以上をまとめると、我々人類にとっての正当/真正な「究極目的 (UP)」とは、
- 「主客合一 (SOI)」的な性格を伴った、「全知全能 (AOU)/完全充足 (PS)」状態への到達
であると、表現できるでしょう。
ただし、客観的 (O)/物理的 (P) なtruth (真理)、それは我々人類にとっては自然科学 (NS) と同一視できるものですが、それは未だ発展途上であり、未完結です。自然科学 (NS) と連動している科学技術 (T) もまた、もちろん発展途上です。
したがって、「主客合一 (SOI)」へは、即座に/お手軽に到達できる訳では無く、それは、自然科学 (NS)/科学技術 (T) に寄り添いながら、粘り強く、少しずつ、近接/達成されていくような性格のものです。
したがって、「「主客合一 (SOI)」的な性格を伴った、「全知全能 (AOU)/完全充足 (PS)」状態への到達」としての「究極目的 (UP)」に対する、我々人類の実践は、
- それ (「究極目的 (UP)」) を (航海における北極星のごとく) 遠くに見定めつつ、それに向けて前進/発展していく発展主義 (D)
という形態を、採ることになりますし、また、それは同時に、
- 「客観的 (O)/物理的 (P) なtruth (真理)、自然科学 (NS)」と同伴する、という意味では物理主義 (P)
的な性格を帯び、更に、
- 「客観的 (O)/物理的 (P) な根拠/妥当性」を欠いた、「主観 (S)/観念 (I) のみの規範 (N)/慣習 (C)/風潮 (M)」には縛られない、という意味では世俗主義 (S)
的な性格を帯びます。
そういう訳で、「「主客合一 (SOI)」的な性格を伴った、「全知全能 (AOU)/完全充足 (PS)」状態への到達」としての「究極目的 (UP)」に対する、我々人類の実践は、
- PSD (物理主義的-世俗主義的-発展主義)
という形態を、採ることになります。
そして、こうした「究極目的 (UP)」と、それに向けての実践としてのPSDは、こうして一度それが認識/膾炙されたならば、我々人類が「充足欲求 (SN)」の錯綜に飲まれて混乱に陥る度に、そこに「正当/妥当な目的/希望/秩序」を回復/再生させるものとして、何度も何度も、繰り返し参照/復習/意識され続けることになります。
そうした人類のための好循環のキッカケを、今こうして我々は形成/確立している訳です。
以上が、PSDの理論の、要点部分だけを抜き出した、簡略的な説明となります。
実践
ここでは、PSDの実践的な面を、説明して行きます。
実践の4本柱
PSDの主要な実践内容は、以下の4つから成ります。
- ① Missionary Activity (布教活動/M)
- ② Mutual Aid Activities (相互扶助活動/MA)
- ③ Study Meeting (勉強会/S)
- ④ Reminding (想起/R)
①の「Missionary Activity (布教活動/M)」とは、文字通り、PSDの対外的な宣伝/布教活動のことです。様々な形で、PSDの内容を広めていくことに努めます。
②の「Mutual Aid Activities (相互扶助活動/MA)」とは、PSD内外の相互扶助を促進/実行していく日常的活動です。(対外的には、福祉活動/生活環境改善活動や地域社会貢献活動にもなると同時に、PSD宣伝/布教の機会ともなります。)
③の「Study Meeting (勉強会/S)」とは、
- PSDの内容や、組織的な目標/成果/課題
- development (発展) に関わるnatural science (自然科学)/technology (科学技術)、market (市場)/business (ビジネス)、あるいは各種の社会問題
などを、勉強し合う各種の会合/活動です。
そして、最後④の「Reminding (想起/R)」は、PSDにおいて、事実上唯一の「ritual (儀礼的) な要素」です。
各種のmeeting (集会) などにおいて、collectively (集団的) に行うこともあれば、各自でpersonally (個人的) に行ったりもします。
(※なお、こうした「ritual (儀礼的) な要素」に関しては、人類史を振り返っても明らかなように、放っておくと必ず内容的に複雑化/形骸化しつつ、それを維持するためのcost/手間が膨れ上がって行き、後世において組織/共同体の存続/発展を危うくする元凶ともなるので、可能な限り簡素化し続けておくことが望ましいと言えます。したがって、PSDにおいても、「ritual (儀礼的) な要素」は、以下で述べる程度で十分です。)
「祈り方」
上記した④の「Reminding (想起/R)」とは、文字通り、PSDの内容/枠組み/実践についての、reminding (想起) であり、(re)confirmation ((再)確認) であり、vow (誓い) であり、prayer (祈り) でもある、と言えるものです。
具体的には、
- Frame (枠組み) : 世界のframe (枠組み)、すなわち、長い宇宙史/地球史/生物史の果てに、我々人類が生まれたという物理世界の全体像。
- Position (立ち位置) : その中で、「全知全能」「世界の根源」に向けて少しずつ歩んできた我々人類、そしてその最前線にいる我々 (私-仲間) の立ち位置。
- Purposes-Progress (目的-前進) : そんな我々 (私-仲間) の、「全知全能」「世界の根源」という「究極目的」に向けた歩み/実践、日々の目的-前進の連鎖。
という3つから成る、PSDの内容/枠組み/実践についてのreminding (想起)/(re)confirmation ((再)確認)/vow (誓い)/prayer (祈り) です。
我々人間は、往々にして、日常/現前の「労働/雑事」「矮小な対立/競争/物語」などに巻き込まれ、PSDのような「根源的/巨視的な思考」や、そこに向けた「目的意識」などを、forget (忘却) してしまい易いので、こうした行為が日常的に必要になって来ます。
なお、ここで重要なのは、まず第1に、「全知全能」「世界の根源」といった「究極目的」を、古典的な宗教と同じく (例えば、Nirvana (涅槃) とか、God (神) のように)、ある種の、
- (常にそこに有る)「光/暖かさ/希望」
といったimage/senseで、捉えることができるようになることです。
そして第2に、自分は、既に「それ」を獲得している/「それ」に到達している/「それ」と一体化できている (すなわち、これ以上/より一層の成長/発展は必要無く、全てが完結した) とは考えず/捉えず、
- 「それ」と自分の間には、まだ距離があり、その距離を理知的/科学的/技術的に、可能な限り縮めて/埋めて行かなければならない、それが人類の生き甲斐であり使命である
と、考える/捉えることです。
この後者 (第2) の部分こそが、「古典的宗教とPSDの、決定的な違い」となります。
頭の中で「即座にそれと同化/一体化」して満足してしまうと、その先の理知的/科学的/技術的発展 (-のための人類の維持//-に向けた情熱/貪欲さ) が、失われてしまいます。
したがって、こうした場合は、「半ば充たされ、半ば充たされていない (だから発展に向けて努力する)」といった、
- 「半充半未 (はんじゅうはんみ)」
の状態を、維持しなくてはなりません。
また、第3の重要点としては、(「世界の人格化」としての)「神」だとか、(「生物史全体」まで遡る)「先祖」だとか、「同時代の仲間たち」だとか、そういった、
- 世界を構成する諸々の「他者の視線」
を意識しつつ、
- それらに対して、恥ずかしく無い、「大枠/大筋において妥当/正当/最善であった」と弁明/説明できる
ような、(PSD的な)「生き方/生き様/人生」を心掛けながら、自己を律することです。
「世界 (神)/先祖/仲間の視線」を感じるだけでなく、それらに対して、自らの思考/振る舞いを「弁明/説明」しながら生きることで、「律する力」を強化するだけではなく、「思考力/論理力/弁論力」も鍛えられます。
そして、第4の重要点は、この「究極目的 (UP)」 に向けた、日々の具体的な「一時目的 (TP)」の連鎖を、意識/確認することです。
これが無ければ、どんな思考/思想も、「具体的な実践/成果」と結び付かない「空理空論」で終わってしまいますし、また、こうして「物事の重要度/優先順位」が明確に意識されていないと、「雑多な情報/欲望の海 (森)」に飲まれて (迷い込んで)、溺れて (彷徨って) しまうことになりますし、社会情勢の変化にも修正対応できません。
「とりあえず、これに集中/専念しておけば、間違い無い」、そういったものがあるかどうかが、人間においては決定的に重要になって来ます。
このように、この「Reminding (想起/R)」においては、
- ① Light (光)
- ② Way (道)
- ③ Eyes (視線)/Explanation (弁明)
- ④ Purpose(s) ((一時)目的)
の4つ (LWEP) を、特に意識するようにしてもらうといいでしょう。
(※更に付け加えると、Rome (ローマ) 時代の「死を想え (memento mori)」の警句や、Heidegger (ハイデガー) の「先駆的決意性」などでおなじみのように、「自分もそう遠くない将来に、死ぬ存在である」という苦痛な現実を自覚しつつ、
- 「一度しかない人生 (1つしかない命) を、掛けるに値する (最高の生き場所/死に場所としての) この道」
を、それなりの緊張感/真剣さを持って進んでいくという意識、すなわち、先の4つ (LWEP) に、
- ⑤ Death (死)/Pain (苦痛)
- ⑥ Tension (緊張)/Seriousness (真剣さ)
の2つ (DT) も付け加えた、計6つ (LWEP-DT) を意識してもらうと、より完成度の高いものとなるでしょう。)
ちなみに、何らかのposture (姿勢)/style (様式) が必要な場合には、
- 合掌 (がっしょう) – 掌 (てのひら) を合わせる。
- 合組 (がっそ) – 指を曲げて手を組む。
- 仰掌 (ぎょうしょう) – 両手の掌 (てのひら) を天に向ける。
- 指天 (してん) – 両手の人差し指で天を指す。
- 拳叩 (けんこう) – 拳で頭や胸を叩く(触れる)、knocking (ノッキング)。
の5つを、推奨しています。
その時々の自分のfeeling (気分/感覚) に合ったものを、各自でselect (選択) してもらうといいでしょう。
より丁寧な形を望むのであれば、東Asia文化圏や、中東Islam圏ではおなじみの、
- 叩頭 (こうとう) – いわゆる土下座。
を行うのもいいでしょう。
また、chant (詠唱) の言葉としては、
- 「全き 充しへの 道と共に」【一般用】
(まったき みたしへの みちとともに/MMM) - 「全き 主への 道と共に」【Theist (有神論者) 用】
(まったき あるじへの みちとともに/MAM)
のいずれかを、推奨します。
行う時期としては、毎日の
- 起床後
- 食事前 (したがって通常は計2-3回)
- 就寝前
や、
- 休憩時
- 気持ちが乱れた時
等に、行う習慣を付けてもらうといいでしょう。
また上記したように、各種の
- PSDの会合/集会
の際には、集団で行うようにしてもらうことが大事です。
「目的論/義務論」と「五因果連鎖」
また、社会的実践における、PSDのような「目的論/義務論」の必要性/重要性を確認するものとして、
- 「五因果連鎖」(ごいんがれんさ/Five Causal Chains/FCC)
というものが、あります。
これを構成する5つの要素は、
- 「目的論/義務論」(Teleology/Deontology)
- 「共有」(Share)
- 「結束」(Solidarity)
- 「協働」(Cooperation)
- 「大成果」(Big Achievement)
の5つであり、これらの要素が、
- 「1が有るから2が有る、2が有るから3が有る・・・」(順因果)
- 「1が無いから2が無い、2が無いから3が無い・・・」(逆因果)
といった具合に、1から5まで「因果の連鎖」を成していることを説明するのが、この「五因果連鎖」(FCC) です。
このように、1から5までの「因果の連鎖」を踏まえておけば、PSDのような「現実的/普遍的/究極的な目的論/義務論」が、必要/重要であることも、直感的に理解/確認しやすくなりますし、実践活動がうまくいかなくなった際に、
- 「どこに問題点/改善点があるのか」
を、点検/把握しやすくもなり、総じて、実践活動の「型崩れ」を、防止/抑止することができます。
そして、こうした発想にも表れている通り、結局のところ、human society (人間社会)/community (共同体) といったものは、
- 「ultimate purpose (究極目的) からの逆算、帳尻合わせ」
でしか、維持していくことができないのだということを、肝に銘じておいてもらう必要がありますし、そうした機能を維持していくためには、
- 「ultimate purpose (究極目的) や、それに向けてのteleology (目的論)/deontology (義務論) が、(PSDの水準程度には) 人々が「人生/命を掛けられる、優先するに値する」と思い続けられる位、また、様々な環境/条件変化を耐え続けられる位には、普遍的/究極的/妥当的/魅力的な内容である必要がある」
と言えます。
実践活動に際しては、こうしたことも頭の片隅に入れておいてもらうといいでしょう。
「評価」と「四義」
PSDの実践活動において、評価/尊敬の「目安/基準」となる「徳目」としては、
- 4. 「Accumulation」(積/しゃく)
(--- 特筆すべき「成果/功績」を、積み上げること。) - 3. 「Achievement」(果/か)
(--- 何らかの特筆すべき「成果/功績」を、生み出すこと。) - 2. 「Continuation」(続/ぞく)
(--- PSDの活動/営みを、積極的に長い期間継続できていること。) - 1. 「Orientation」(向/こう)
(--- PSDのframe (枠組み) に、心身がちゃんと向いて/向かっていること、PSDのstream (流れ) の中にちゃんと参加し、身を置いていること。)
の4つから成る、
- 「Four Righteousness」(FR/四義)
があります。
こうした観点を基本とし、加えて各人の事情/能力の違いに配慮しながら、その「成果/功績」や「献身性」を、そして各人の
- 「Righteous Person」(RP/義人/ぎじん)
としての評価を、総合的に判断していくことになります。
「合議制」と「会費」
PSDのorganization (組織)/community (共同体) のmanagement (運営) に関しては、(安定性を確保するために、(「混合政体」的に)「血統/王統」や「長老会/元老院」的な要素を混合することもあり得ますが) 基本的には、
- (feedback/response機能を持った)「Collegiality」(合議制)
- (内容/人数/資金の公表などの)「Transparency」(透明性)
という2本柱を基軸とした、公明正大なmanagement (運営) が、大原則となります。
PSDというplatformは、そのteleology (目的論)/deontology (義務論) を基盤とした、common vision (共通理念)/common purpose (共通目的)/common sense (共通感覚) のshare (共有) で成り立っており、「特定個人の能力/人格」に依存する必要がありませんし、「価値観が錯綜/対立して混乱を招く」といった危険性も無いので、こうしたmanagement (運営) が可能になります。
(※PSDでは、その物理主義的/世俗主義的/発展主義的な内容/性格上、
- 「我々人間一人一人は、皆不完全であり、失敗も犯す」
- 「そんな人間達が、理想/究極目的を共有することで、人間/人類としての「最高の義」に与れるし、連帯/協調/発展していける」
という発想が大前提なので、「特定個人を神格化/神聖視」したり、「それに組織/集団として依存」したりするようなことはありませんし、してはいけません。)
また、「腐敗/堕落の防止/抑止」という観点や、我々が本気で/真剣に「人類の発展」のために公明正大に活動している「真正な組織」であるということを、内外に示すという観点からも、こうしたmanagement (運営) が推奨されます。
PSDのoperating cost (運営費) については、(多角的な収入源確保に努力するものの) members (会員) がcontribute (拠出/提供) し合う、
- 「会費」(Due)
で賄うことを、基本としますが、その額は、いわゆる「十分の一税」(tithe) に倣い、income (収入) の多寡に関わらず、
- 一律「income (収入) の10分の1」
を、基本とします。
その理由は、
- この程度のrate (比率) であれば、「他の組織/勢力」に対して、大きく遅れを取ることは無いから。
- この程度の負担を課すことで、members (会員) の「本気度/真剣度」を試す/測ることができるから。
- この程度の負担に応じることで、members (会員) に、members (会員) としての「自覚/自尊心/参加意欲/責任感/緊張感」を養うことができるから。
- 組織として、常に/安定的に一定のincome (収入) を期待でき、またそのvolume (規模) も予測し易く、更にその「増減の波」にも比較的翻弄されずに済む (抑制できる) から。
- 「政治的な色」の着いた「特定の資金元」に、依存せずに済むから。
- members (会員) 間の収入格差に対する不満/不信/嫉妬などを軽減し、組織への信頼/帰属意識や、members (会員) 間の仲間意識/一体性を、育むことができるから。
- members (会員) 間の収入格差をそれほど気にせずに、各自が (収入格差がある) 役割分担/職業分担を、前向きに/安心して担っていけるようになるから。
の7つです。
こうした手法は、
- 「market economy (市場経済) を否定せずに、market economy (市場経済) の「荒波」を乗り越えていく」
には、不可欠だと言えますし、PSDのように、その内容/運営に対する信頼を確保できて、初めて成り立つものでもあります。
「混血」による「我々意識」「一体感」の醸成/拡大
上記したように、PSDでは、「Collegiality」(合議制) だけでは、組織/共同体運営が不安定になってしまう場合に備えて、(「混合政体」的に)「血統/王統」や「長老会/元老院」的な要素を混合するといったoptionsも、用意しておく必要がありますが、そういった場合にも、他の会員に疎外感を与えてしまうことが無いようにするために、また、「Collegiality」(合議制) を一部の勢力が乗っ取ろうと画策するようなことが無いようにするためにも、全会員の「混血」を進めて、「我々意識」「一体感」を醸成していく必要があります。
こうした「混血戦略」は、PSDの内部に限った話ではなく、対外的にも同様に言えることです。
人類全体に (思想としての)「PSD」と「混血」を浸透させつつ、各種の疎外感や対立関係を緩和しながら、人類全体の平和/維持と発展を図っていく、それが (組織/共同体としての) PSDの対外的な基本姿勢/方針/戦略だと言えるでしょう。
「新しい家族観」と「皆で子作り/子育て」「個体数管理」
上記の「混血」の話とも関連しますが、market economy (市場経済) や、democracy (民主制)/human rights (人権)、あるいはnatural science (自然科学)/technology (技術) の深化/発展などによって、目まぐるしく環境/条件変化するmodern society (近代社会) においては、「旧来の素朴な家族観」で以て、家族、人口、共同体、社会を維持していくことは不可能です。
そこで、PSDのような、諸々の環境/条件変化に耐えつつ、それらに対応していける、「現代的な目的論/義務論/宗教性」に支えられた、「新しい家族観/共同体観/道徳観」と、「皆で子作り/子育て」しつつ、人口が極端に増減しないような「個体数管理」を行なっていける (更に言えば、「皆で教育/学習する」ことで、「数」だけでなく、「質」も維持していける) 体制/環境を、構築/確立/普及していかねばなりません。
逆に言えば、そうした諸々の環境/条件変化に耐えながら、「皆での子作り/子育て/教育/労働 (存続/発展)」を促し続けていけるような、PSD水準/現代水準の「共通(共有)目的論/義務論/宗教性」が無ければ、家族/共同体/社会を維持していくことはできないのであり、そうした諸々の環境/条件変化は、人々が依拠している思想/宗教が、「本物か偽物か」「本当に役立つか否か」「賞味期限が切れているか否か」「改革が必要か否か」を見極める、「試金石」「ふるい落とし」として機能し続けると、言っていいでしょう。
長い時間をかけて、偽物 (の思想/集団) が淘汰されていき、本物だけが生き残る格好に、自ずとなりますし、なっていかざるを得ません。
「右/左/中/個 (or 三権力) に配慮した上」という立ち位置
近代の政治思想/ideologyにおける立ち位置で言うと、既存の、
- Right (右) - Conservatism (保守主義)/Traditionalism (伝統主義)
- Center (中道) - Liberalism (自由主義)/Democratism (民主主義)
- Left (左) - Human Right-ism (人権主義)/Egalitarianism (平等主義)
に対して、PSDのようなDevelopmentalism (発展主義) は、あえて分かりやすく視覚的に表現するならば、
- Upper (上) - Developmentalism (発展主義)
という風に表現できます。
これら4つの思想的立場は、下図のような格好で形成/継承されてきましたが、第4の「上」としてのDevelopmentalism (発展主義) に関しては、これまで明確に言及されて来なかったため、我々がこうして、PSDとして、update/upgradeした形で、言及せざるを得なくなっている訳です。
そんな「上」としてのDevelopmentalism (発展主義)/PSDですが、実践において注意すべきことは、
- 「右、左、中道、そして (集団性に対する) 個人性、そのそれぞれに配慮すること」
です。
というのも、Developmentalism (発展主義)/PSDの目的は、あくまでも「人類 (や後継活動体) の維持/発展」にあるのであり、違う思想的立場を否定/攻撃することにあるわけではありませんし、上記したそれぞれは、それぞれの立場から、社会の安定/成熟に貢献しているのであり、その立場を尊重することは大事なことでもあるからです。
(※ちなみに、これら「右/左/中/個」に関しては、配慮するだけではなく、「上」としてのDevelopmentalism (発展主義)/PSDと接合し、共に「人類の発展」に貢献してもらわねばなりません。
そして、こうした配慮/接合を考える上で、特に「右」と「左」に対して注意することとしては、まず「右」に関しては、彼らが大事にしている、
- 「Inheritance (継承性)」(と、「Stability (安定性)」)
を、維持していくことと、他方で「偏狭化/時代遅れ化」に陥ってしまわないように、
- 「Mix/Extension (混合/拡張)」
- 「Update/Compression (更新/圧縮)」
を、促していくことであり、「左」に関しては、「特定の政治目的に悪用される」ことが無いように、
- 「Fairness (公平性)」
を、追求/確保していくことです。)
これがDevelopmentalism (発展主義)/PSDの、異なる思想的立場に対する基本姿勢です。
ちなみに、Center (中道) - Liberalism (自由主義)/Democratism (民主主義) に寄生させる形で表示させていたIndividualism (個人主義)/Mammonism (拝金主義) を独立させて、全体をtetrahedron (三角錐) として表現すると、下図のようになります。
こちらの方が、全体の構造が分かりやすいかも知れません。
なお、上記したのは政治思想/ideologyの観点からでしたが、これをもっと幅広く、社会権力 (Social Powers) という観点に置き換えた話も、ついでに付け加えておきたいと思います。
我々が暮らす人間社会は、基本的に、
- ① 政治-軍事権力 (Political-Military Power(s))
- ①-1 政治権力 (Political Power(s)) - 行政/立法/司法
- ①-2 軍事権力 (Militaty Power(s)) - 軍隊
- ② 思想-宗教権力 (Ideological-Religious Power(s)) - 言論(人)/宗教(家)
- ③ 科学-技術権力 (Scientific-Technological Power(s)) - 科学/技術
- ④ 商業権力 (Commercial Power(s)) - 企業(家)/投資家/資金
という4つの権力 (Powers) の、結託やせめぎ合いによって、成り立っています。
(※上記している通り、厳密に言うと、政治権力と軍事権力を分割して、全部で5つに分けることができますが、歴史的に見ても、この2つは不可分一体的であり、分割することにあまり意味が無いので、ひとまとめにさせてもらっています。)
(※なお、これらの権力が、「人々/民衆を服従させる」ための「力の源泉」としては、
- ① 政治-軍事権力 (Political-Military Power(s))
- ①-1 政治権力 (Political Power(s)) - 刑罰
- ①-2 軍事権力 (Militaty Power(s)) - 武力
- ② 思想-宗教権力 (Ideological-Religious Power(s)) - 糾弾/扇動
- ③ 科学-技術権力 (Scientific-Technological Power(s)) - 知力/技術力
- ④ 商業権力 (Commercial Power(s)) - 金銭
といったものを、挙げることができます。これらによって、「人々の社会的な生存」を脅かしたり支配することで、服従を強いる訳ですね。)
そして、ここまで上記してきたのは、この内の② 思想-宗教権力 (Ideological-Religious Power(s)) についての話だった訳ですが、これが実際に「社会的な力」を持つためには、①③④と結託するか、①③④の機能を自ら持つ必要があります。
また逆に、①③④の側からしても、その力を強化するために、②と結託するか、②の機能を自ら持つ必要があります。
(また、他方ではもちろん、①③④が各々独自に結び付くことも常にあります。)
こうして我々が暮らす人間社会は、成り立っています。
したがって、Developmentalism (発展主義)/PSDの立場からすれば、人類を引っ張り上げていくためには、単に②だけを考えていれば良いわけではなく、①③④への対処もまた、併せて考えておかねばならない、ということになります。
そして、これらを上掲した、政治思想/ideology (≒ 思想-宗教権力 (Ideological-Religious Power(s))) をまとめたtetrahedron (三角錐) の中に配置すると、下図のようになります。
ちなみに、これら各々の権力が、力を強化 (人気/忠誠心獲得、支配強化) するのに専ら用いる観点/手法としては、
- ① 集団間対立
- ② 信仰
- ③ 利便性
- ④ 革新(新規)刺激による(集団)中毒化/流行化/同調圧力化/習慣化
等を、挙げることができますし、また、全ての権力に共通して用いられる手法としては、
- 競争
- 複雑化/単純化
- mass/social (media向け情報/役割) 重視戦略
の3つを、挙げることができます。
それに対して、Developmentalism (発展主義)/PSDの側が、力を獲得/発揮/強化するために、専ら依拠/活用できる観点/材料/手法としては、
- 理知/真理/発展欲求
を、挙げることができますが、それに加えて、上記したような様々な権力/勢力の観点/手法を踏まえた上で、それらに対応しつつ、それらを「上」へと誘導/牽引しながら、人類全体を発展させていく、といった高度な努力/役割が、求められます。
(※特に、
- こうした思想/権力の内部の一部には、放っておくと、必ず過激化して「社会の乗っ取り/破壊」を画策するようになる「癌細胞」のような人々が出てきしまうのが、人間社会の常である
- 「究極目的」が提示/共有されていない環境では、物理的/身体的にも、思想的/精神的にも、「万人の万人に対する闘争」(的な混乱状態) へと流れて行ってしまうことになる
といった危険な実態を踏まえつつ、緊張感を持ってそうした部分に目を光らせ、「予防/治療」を行いながら、「人間社会のbalance/安定/維持/発展」のために献身していく姿勢が求められます。)
「極右/極左/全体主義」と「Plato図式」の図示
さて、政治思想におけるRight (右) - Left (左) の立ち位置/関係は、基本的には上記した通りですが、それらはあくまでも、democracy (民主制) の原則 (枠) 内に留まる、
- 「Center-Right (中道右派)/Center-Left (中道左派)」
の話に、過ぎませんでした。
しかし、Right (右) - Left (左) には、もう1つ、democracy (民主制) の原則 (枠) から逸脱した、totalitarianism (全体主義) としての、
- 「Far-Right (極右)/Far-Left (極左)」
も、存在しています。
そこで、ここではそれらについても、述べておきたいと思います。
Hayek (ハイエク) やBerlin (バーリン) をはじめとして、様々に指摘されているように、Far-Right (極右) とFar-Left (極左) は、totalitarianism (全体主義) のvariationに過ぎず、内容の差は、実はあまり重要ではありません。
要するに、
- 支配/独裁を目論む個人/集団が、「どこから」出てきたか
- 民衆が、「どのような」部分に不満/不安を抱えているか
- 民衆支配する上で、「どれが」より都合が良いか
といった要素が絡まり合って、Right (右) - Left (左) のvariationの中から立ち位置が定まっているに過ぎない訳です。
したがって、例えば、Russia (ロシア)/China (中国)/North Korea (北朝鮮) のような旧socialism (社会主義) 国家のように、Far-Right (極右) とFar-Left (極左) を併用している国もあります。
特に、Russia (ロシア)/China (中国) のような「大規模征服国家」の場合には、
- 社会の中心民族/中層-上層は、Far-Right (極右) 思想で説得/支配し、
- 下層 (貧乏人) や他民族 (少数民族) は、Far-Left (極左) 思想で説得/支配する
という形にした方が、統治しやすいので、自ずとこういう形になる訳です。
そういう訳で、Far-Right (極右) とFar-Left (極左) の差異は、支配者/独裁者が採用する方便の差異でしかなく、両者に本質的な違いはありませんし、「全体主義的支配」という目的の下で、「繋がっている」とも言えます。
そんな両者の関係を、図示すると、下図のようになります。
このように、貧富格差/重税/戦乱などによって「民衆の不満/不安」が蓄積し、既存の支配層がそれを解決できない場合、Far-Right (極右) やFar-Left (極左) に乗っ取られるriskが高まります。
そして、一度乗っ取られると、長い時間や多大な犠牲を払いながら、「民主改革/民主革命」が生じるのを、待たねばならなくなります。
そうした事態を回避/防止するにはどうしたらいいかについては、Plato (プラトン)/Aristotle (アリストテレス) の時代から、1つの答えが示されています。
それは、抽象的に言えば、
- 「究極目的」を共有し、「発展主義的意欲」「中庸的balance (適度) 感覚」「共同体的結束」を備えた集団が、社会/国家の中心を占め、安定を図っていく (対立をやり過ごしていく/利害を乗り越えていく)
ということに、なります。
これを図示すると、下図のようになります。
そして、言うまでもないことですが、こうした構造を現代的に形成/構築/実現するには、PSDのようなものが必要になる訳ですね。
「混沌/複雑/動/多」と「秩序/単純/静/一」
上記した内容とも関連しますが、人間は、個人のlevelでも、集団/社会のlevelでも、
- 「硬直化」している時には、「混沌/複雑/動/多」を志向/嗜好/選好する圧力が強まり、
- 「混乱」している時には、「秩序/単純/静/一」を志向/嗜好/選好する圧力が強まる
というmechanismが、働きます。
したがって、上記したようにPSDのようなものを支えとして、適度に「情報の複合化/単純化」を行いつつ、balanceを取っていける/やり過ごしていけるような体制を構築していないと、そうした気まぐれな動きに振り回されて、ボロボロになってしまいます。
(※ ちなみに、PSDのsymbolは、そうした人間の二面性に対応できるように、2種類用意されています。)
「適応型人間」と「究極型人間」
上2つの話と同じような話を、もう1つだけ、違う観点から述べておきたいと思います。
大まかに言えば、人間は、
- 適応型 -- 「目の前の状況/環境」に適応する形で生きている。
- 究極型 -- 「究極目的」を見据えながら生きている。
の2種類に、分けることができます。
そして、前者の適応型は、その性格上、放っておくと、「成り行き任せ」的に、「一蓮托生」的「全体主義」か、「分裂崩壊」的「個人主義 (自由主義/拝金主義)」という両極端に流れて行き易いし、それに対して歯止め/軌道修正をかける能力もありません。
つまりは、「適応型しかいない社会/国家」は、崩壊/破綻を繰り返すしかないということです。
したがって、そうした事態を避け、社会/国家を適正/穏当に維持/発展させ続けていくには、
- 「(PSDのような) 「妥当/正当な目的論」の下で結束し、様々な条件/環境変化に柔軟に対応しながら、共同体の維持/発展を図っていける究極型の人々」
の数を増やし、社会/国家を支えさせるしかない訳です。
そうした観点からも、こうした構造を眺めてもらえるようになると良いでしょう。
「需要の多様化/変化への対応」と「金/数/規模の追求」
既述の通り、PSDがその名称にあえて、Physicalism (物理主義) やSecularism (世俗主義) を加えているのは、一方ではnatural science (自然科学) との連携を強調するためであり、他方では「市場経済と人権」によって不可避的に生じる、「近代社会における需要の多様化や、その変化」への対応性を、強調するためです。
逆に言えば、PSDのように、「全知全能に向けた発展」という「究極目的/究極義務」以外に、「余分な規範/規則」をほとんど挟まない内容/枠組みであればこそ、「変容し続けていく社会環境」の中で、可能な限り柔軟に、「多様な人々のあり方、その需要」に、対応し続けていく (そして、その活力を、「人類の維持/発展」という「目的論/義務論」の下へと誘導/結集させつつ、社会的/生産的な形で、昇華/発揮させ続けていく) ことができるわけです。
こうした (meta的/macro的な)「目的」的規範と、(個別具体的な)「規則」的規範の差異を弁え、両者を混同しないようにしておくことは、とても重要です。
(※ちなみに、「多様性」を穏当に処理/管理していくためには、多様な「言語/文化/伝統/(宗教)/(血統)」の混合/融和/拡張によって、先鋭的な対立/衝突が生じるのを、回避していける (そして、PSDのような普遍的な「目的論/義務論」へと接合/軟着陸させていける) 環境を、醸成していく必要がある訳ですが、こうした事柄に関しては、SHAKAI HATTENのplatformにおける「日本に関する取り組み」が、model caseとして、参考になることでしょう。)
そして、思想/組織としての影響力/勢力を拡大しつつ、PSDとしての目的を達成していくために、PSDは、そうした「多様性、多様な需要」に対応しつつ、そして、我々PSDこそが、「人類としての、最高の快楽/充足/尊厳/利益」を獲得/享受できる、最高の思想/組織/platformであることを喧伝/appealしつつ、「金/人数、その他の規模の拡大、そして影響/勢力の拡大」を、追求していくことになります。
「中途半端な慣習/規範/綺麗事」に囚われ、停滞/迷走するようなことはありません。
なお、ついでに、「需要」に関連した話題を、ここで少し付け加えておきますと、まず第1に、「需要」には、
- 倹約的/日常的/「ケ」的な「通常の需要」
- 発散的/懸命的/「ハレ」的な「生きがい需要」
という2種類の区別があることを、押さえておくことは重要です。
人間は、前者に関してはなるべく節約しようとしますが、後者に関しては糸目をつけない傾向があります。したがって、前者だけでなく、後者にもしっかり対応し、その「受け皿」となれるように、努力/準備していく必要があります。
何に「生きがい」を感じるかは人によって違いますが、一般的には、「子供/育児/教育」「観光」「高級-贅沢品」「祭り」「流行」「収集品」「政治-宗教献金」「福祉的寄付」などが、後者の「生きがい需要」の代表例となります。
(※したがって、「人々の生きがいの宛先/受け皿」となり続けられるような「(普遍的/究極的な) 思想性/宗教性/物語性」を、自分の内に持っていないような個人/組織は、こうした「生きがい需要」に対応できませんし、逆に持っている個人/組織は、圧倒的かつ決定的なadvantagesを、得ることになります。そして、そのことは、時間の経過と共に、ますます明白/鮮明なものとなります。
そういった意味でも、PSDのような宗教性の有無は、決定的に重要になって来ますし、「思想性/宗教性/物語性」の問題から逃げている凡庸な学者や経営者は、絶対に大した成果/影響力を、後世に残すことはできません。)
第2に、上記の「生きがい」需要に似た (準じた) ものとして、stress解消を目的とした、「gas抜き (letting off steam)」の需要があります。
これは、liberalism (自由主義) やindividualism (個人主義) の成立とも深く関わっているものであり、主なものとしては、
- 表現 (漫画/anime/同人/subculture/fashion)
- じゃれ合い (community/circle/fandom/social media/game/玩具)
- 娯楽 (お笑い/歌劇/entertainment/不良-はみ出し/gamble)
- 暴力 (格闘技/pro-wrestling)
- 性 (porn/性風俗業)
の5つを、挙げることができます。
(※また、これらに共通した要素として、ある種の「idol(s) (偶像)/character(s) (キャラクター)/story (物語)」といったものを、挙げることができます。)
こうした「gas抜き産業」があればこそ、民衆/大衆は己の中の「渦巻く感情/欲望」を「一定の社会的な枠内」で発散でき、暴発せずに日々をやり過ごすことが可能になっているのであり、そうであるが故に、こうした「gas抜き需要/産業」は、これからも形を変えながら残り続けることになりますし、仮に失われていくようなことがあれば、社会の安全保障上、保守していく必要があります。
また、当然のことながら、上記した「生きがい需要/産業」と同じく、この「gas抜き需要/産業」に関しても、こうしたものに対応できるかどうか、あるいは、こうしたものを利用/活用していけるかどうかが、その個人/組織の社会的な成果/影響力の獲得を考える上では、大きな差となってきます。
そういう訳で、上記した「通常需要」「生きがい需要」と、この「gas抜き需要」をひとまとめにすると、人間の「主観的な需要」は、大まかにはこうした3層構造になっていると、表現できるでしょう。
したがって、PSDの立場から言えば、こうした諸々の主観的需要にも対応しつつ、その活力も利用/活用しながら、人類の発展を後押ししていくことが、重要になります。
第3に、様々な「需要」に対応していくためには、
- 「踊る阿呆 (演者)/汚れ役/引き立て役/客寄せパンダ」に、自らなれるかどうか
が、決定的に重要になってきます。
逆に言えば、「見る阿呆 (観客/傍観者)」にしかなれない、「汚れ役/引き立て役/客寄せパンダ」にはなれない、なんていうウブな/神経質な/潔癖症な/頭が堅い/自尊心が無駄に高い人間は、自ずとできることが制限されるし、大した役回りをこなせない人間と、ならざる得ません。
したがって、時にはそういった役割をこなせるように、日頃からself-image (自己イメージ) を柔軟にしたり、心構え/練習/訓練したりしておくことが、大切です。
(※本項目の冒頭でも上記したように、PSDがその名称に、Secularism (世俗主義) の一語をわざわざ盛り込んでいるのも、そうしたことを意識してのことでもある訳です。)
第4に、「需要」が無いところや低下しているところに、
- 「思想/物語」
- 「個性/特徴/変人/新ネタ (テコ入れ)」
- 「同調圧力」
- 「合理化/効率化」
などの措置を導入/投入/総動員して、「需要」を創造/(再)活性化できる能力は、とても大きな武器になります。
経済学の初歩的な概念である「限界効用逓減の法則」にも表れている通り、人間はどんなものにも「飽きる」ので、基本的に「需要」というものは、低下していくものです。
既成の「需要」に、ただ「乗っかる」ことしかできない者たちは、そうした「需要」の自然落下に巻き込まれて、停滞/衰退に陥ることになりますが、上記したように「需要」を創造/(再)活性化できる能力がある者たちは、他の周囲の者たちが沈んでいく中で、権益/影響力を拡大し続けることができる訳です。
(※こういった点でも、いかなる環境/条件変化によっても色褪せることの無い「思想性/物語性」を、保有しているPSDの徒は、圧倒的なadvantagesを、得ることができます。)
(※なお、上記した第3/第4の話題と関連した話は、別pagesにおいても、「仮直/激」や「二段構え」として言及しているので、併せて参照してもらうと良いでしょう。)
「需要/欲求」の様々な分類法
前項では「需要/欲求」のあり方について、性格別に大掴みに理解してもらうために、
- 生きがい需要
- gas抜き需要
- 通常需要
の「3層構造」として説明しましたが、「需要/欲求」に対する感度を高めてもらうために、一般性が高い別の分類法も、ここで2つほど追加で述べておきたいと思います。
まずは、Maslow's hierarchy of needs (マズローの欲求階層) です。
知っている人も多いと思いますが、これは人間の欲求を、
- Self-Actualization (自己実現)
- Esteem (尊重)
- Belonging and Love (所属/愛)
- Safety (安全)
- Physiological (生理)
という5つに分け、「下が満たされると、上へと移行する」といった階層/序列として、説明したものです。
この「5層構造」は、(中間 (中層) 部分は多少、毛色/性格が異なりますが) 概ね先の「3層構造」を少し細かくしただけのものであり、性格的には似通ったものだと言えます。
そしてもう1つは、Plato (プラトン) が主著である『Politeia』内で述べた、人間の欲求の分類です。
これは人間の欲求を、
- 「知/真理 (究極/普遍/善)」を求める欲求 --- 「哲学者」的欲求
- 「勝利/名誉」を求める欲求 --- 「軍人 (戦士/武士)」的欲求
- 「金銭」を求める欲求 --- 「商人」的欲求
- 「放縦」を求める欲求 --- 「民主/自由/平等/個人/相対主義者」的欲求
- 「装飾」欲
- 「食」欲
- 「創作/娯楽」欲
- 「暴力/破壊」欲
- 「幻覚 (酒/薬物)」欲
- 「性」欲
- 「支配」を求める欲求 --- 「独裁者」的欲求
- 「放縦」を求める欲求 --- 「民主/自由/平等/個人/相対主義者」的欲求
という5つに分け、「上の欲求がしっかり手綱を握ってないと、下の様々な欲求へと引っ張られて人間は堕落する」といった階層/序列として、説明したものです。
(※下部の「放縦」に属する諸々の欲の内容は、概ね前項で言及した「gas抜き需要」に相当/符号します。そして、この領域は「群/逸脱/熱狂」が鍵となっているので、これらの欲求/需要に応えていくには、当人たちには意識/認識されづらい形で、
- 最終的に「オチをつける」「着地点に落として、落ち着かせる/溜飲を下げさせる/大円団にさせる」ことができる
ような「管理された枠内」で、「群れさせる/逸脱させる/熱狂させる」ことが、肝要になります。)
(※なお、Plato (プラトン) に関しては、上記の内容とも関連した「魂の三部分説」にまつわる喩えである「政体/型 (Politeia/Form)」や「馬車/戦車 (Harma/Chariot)」について、「体質について」のpage (の最下部) でも図と共に言及していますし、また、そんな「馬車/戦車 (Harma/Chariot)」の喩えと「脳内物質」と「人間の主な営為」の関係については、こちらで詳述しているので、併せて参照してもらうと良いでしょう。)
こうした話も併せて踏まえてもらうと、「需要/欲求」に対する感度を、より高めてもらうことができるでしょう。
「Platformer競争」と「思想競争」
ついでにここで、ここまでちゃんと述べる機会が無かった「社会的営み/社会的実践」に関する最も基本的な話を、しておきたいと思います。
経済活動のみならず、政治活動のみならず、文化活動のみならず、あらゆる社会的営みは、基本的に「Platformerに関する争い/競争」を土台として、成り立っています。
「誰が/どれが最も優れたplatformerか」「それはどのような思想/原則/条件/内容の下で、運営されているか」、そういった試行錯誤/争い/競争が、人間社会では常に、あらゆる分野/領域で水面下に行われており、(Marxisimの下部構造決定論と似た話になりますが) 人間の社会活動において表面に現れてくる「様々な成果/objects」は、その反映だと言っても過言ではありません。
そんな「Platformer (を支える思想) 競争」の鍵となるのが、
- 範囲/規模 --- 「より多くの人間 (全人類)」 を包摂対象にできているか。
- 内容的妥当性/耐久性 --- (科学/技術の発展や社会環境の変化などが、様々に生じる) 遠い将来に渡って、「内容的な妥当性/納得感/魅力」を維持できるかどうか。
- 結束/実行性 --- 「集団的/社会的な結束/実践」を実現し、「具体的成果」を積み上げ続けていけるかどうか。
の3つです。
こうした要素/条件を備えているplatformerのみが生き残り、備えていないplatformerは、競争に敗れて淘汰されていくことになります。
ここまで書けば、なぜPSDのような思想が、またそれに基づくplatformが、重要であるのかが、分かってもらえると思いますし、同時にその強みも、理解してもらえると思います。
「複雑化による自滅」と「目的論的単純化 (複合化/圧縮)」
また、いかなるplatform/system/組織/集団や思想的枠組みであっても、放っておくと「チリが積もる」ように、「慣習/伝統/歴史/文脈的な情報」が積み重なり、情報が「大量化/複雑化/脱線化」し、それによって、
- 「硬直化/停滞化」
- 「労力/負担増」
- 「頭でっかち化」
等を招き、「自滅するpattern/process」に陥ってしまうことになります。
人類の歴史は、その繰り返しと言っても、過言ではありません。
当然のことながら、個人であろうが、集団であろうが、人間には肉体的にも頭脳的にも、「労力の限界」がある訳で、
- 野放図な「情報の積み重なり/大量化/複雑化/脱線化」
を放置していると、それに「押し潰される/食い潰される」格好になってしまう訳ですね。
そして、そうした「自滅pattern/process」に陥ることを避けるには、
- 「究極目的 (最優先目的) に向けて、情報を単純化 (複合化/圧縮) (+軌道修正) していく」(そして「負担/労力」を小さくしつつ、新しいことを行っていく「余力」を確保していく)
という作業が、継続的に必要になります。
そして、そうした作業を行い続けながら、存続/発展領域を確保していくためにも、PSDのような「普遍的/究極的かつ現実的な目的論」が、必要になりますし、逆に言えば、そうしたものが無ければ、上記したような「自滅pattern/process」に陥るのを、避けることは難しいと言えるでしょう。
「認知構造」と「動/遊/出/細/丁」の重要性
ついでに、人間の「認知構造」に絡めて、「動」等の関連した話題を、述べておきたいと思います。
まず人間 (動物) は、その「認知構造」上、「動いているもの」に注目/反応し易い習性があります。
したがって、何らかの社会活動を行なっていく際にも、
- 「新奇性/変化/前進情報/発展情報/進捗情報」
といったものを出し続けていくことが、鉄則になります。
(※逆に、注目/反応されたくないことは、ゆっくりと、事を進めていくのが鉄則ですね。)
また、「動」の重要性については、
- 「多動/多様」によって、反動的/相対的に「静 (安定/真実/真理/究極)」への志向を促す
という効果も持っています。
このように、社会実践においては、「動」はなかなか重要な要素になります。
そんな「動」に関連した要素としては、
- 「動」のための実践的な「幅/余地/駆動源」を確保/調達するための「遊 (遊び/遊戯)」「出 (はみ出し)」要素
- 「動」が「粗/雑」に頽落しないようにするための「細 (繊細)」「丁 (丁寧)」要素
といったものを、挙げることができます。
ちなみに、ここで述べている内容が、体質/Habitudeのpageで述べている「(究極目的)-直-和」の図式と、概ね一致しているのも、偶然ではありません。我々人間はそういう習性を、個人としても集団としても、抱えている訳ですね。
「説得」の基本的な仕組み/作法
人類の社会的営み (social game) というものは、人々/民衆をいかに「根負け/受容/服従」させるかという、「説得game (persuasion game)」であるとも、表現できます。
そして、その「説得game」に大きく作用する要素である「ideology (イデオロギー)/power (権力)」や「demand (需要)」 (そして、その中で独自のrole (役割)/position (立ち位置) を確立/確保することの重要性) については、前々項や前項で言及しましたが、ここでは最後に、「説得」自体の基本的なあり方について、述べておきたいと思います。
分かり易いように、Aristotle (アリストテレス) の『Rhetoric (弁論術)』を下敷きに話を進めると、まず、人間の説得行為は、基本的に、
- Logos (ロゴス/言論) - 「理屈」による説得。
- Ēthos (エートス/人柄) - 「話し手の人柄」による説得。
- Pathos (パトス/感情) - 「聞き手の感情への訴えかけ」による説得。
の3つの組み合わせで、成り立っています。
ただし、Aristotleの説明は、言葉足らずや的外れな面も見受けられるので、これを実態や現代人の感覚に合うように、いくらか修正すると、
- Logos (ロゴス/言論) - 「(話者の) 話の速さ/長さ/内容の複雑さ幅広さ/自己完結性 (一理あり)」による説得/押し切り。
- Ēthos (エートス/人柄) - 「(話者の背後にある) 実力/実績/社会的信頼/権威/風潮」による説得/押し切り。
- Pathos (パトス/感情) - 「(話者の) 熱量/熱心さ/真剣さ/本気度/切迫度/悲惨さ」による説得/押し切り。
の3つの組み合わせ、といった具合に、なるでしょう。
ちなみに、この「Logos (言論) - Ēthos (人柄) - Pathos (感情)」図式に、「Physis (自然) - Nomos (社会) - Ego (個人)」 の図式を絡めると、より理解の精度を高めることができます。
要するに、Logos (言論) (による説得) には、
- Physis (自然) 的なもの --- 物理的/科学的な真理
- Nomos (社会) 的なもの --- 法律/慣習/道徳
の2種類があり、Ēthos (人柄) (による説得) には、
- Physis (自然) とEgo (個人) が関係するもの --- 肉体的な強靭さ/美しさ
- Nomos (社会) とEgo (個人) が関係するもの --- 社会的な成功/権威/選好
の2種類があり、Pathos (感情) (による説得) には、
- Nomos (社会) とEgo (個人) が関係するもの --- 社会的な共感/同情
の1種類がある、という見方ができる訳ですね。
- Logos (言論)
- Physis (自然)
- Nomos (社会)
- Ēthos (人柄)
- Physis (自然) + Ego (個人)
- Nomos (社会) + Ego (個人)
- Pathos (感情)
- Nomos (社会) + Ego (個人)
単純化すると、下図のようになります。
なお、それ以外の、人間の認知的/身体的性質に根ざした要素としては、
- Simpleness (単純さ)/Convenience (便利さ)
- Stimulus (刺激)/Novelty (目新しさ)/Rarity (希少性)
- Habit (習慣)/Form (型)/Pattern (パターン)
- Confrontation (対立)/Competition (競争)/Obsession (執着心)
- Humility (謙虚さ)/Politeness (丁寧さ)/Kindness (親切)
- Humor (ユーモア/緊張緩和)/Fairness (公平さ)
などを、挙げることができます。
そして、実際問題「大衆向けの説得」において、この3つの中で最も重要な要素はどれかと言うと、一般的には、圧倒的に「Ēthos (エートス/人柄)」です。
もっと具体的に言えば、元となる「実力」自体もある程度は必要ですが、それを何倍にも大きく見せる、
- 「肩書き/実績作り」
- 「有名人/著名人たちとのコネ」
- 「media露出/知名度向上」
こそが、圧倒的に重要です。
Francis Bacon (フランシス・ベーコン) のidola (イドラ) 論で言えば、これによって、「劇場のidola」「市場のidola」の2つを、掌握/操縦できるようになる訳です。
そうすれば、「よっぽど重大 (反社会的) なヘマ」をしない限りは、ある程度の支持/影響力を維持できます。
だからこそ、それが分かっている一部の人々 (芸能人/influencer/実業家/政治家/学者/言論人など) は、なるべく多くの「肩書き/実績作り」「コネ作り」「media露出/知名度向上」に、躍起になる訳ですね。
こうしたことも、頭の片隅に入れておいてもらうと良いでしょう。
「社会構造 (SS)」
上記したĒthos (エートス/人柄) に関する話は、抽象的に言えば、
- 「社会構造 (Social Structure)」
- 「象徴的image/character/立ち位置/役割 (Symbolic Image/Character/Position/Role)」
という2種類の話題の組み合わせとしても、説明できます。
ここではまず、前者の「社会構造 (Social Structure)」の話から、して行くことにしましょう。
ここで言う「社会構造 (Social Structure)」とは、
- 政治構造 (Political Structure)
- 経済構造 (Economic Structure)
- 産業構造 (Industrial Structure(s))
- 文化構造 (Cultural Structure(s))
- 伝統構造 (Traditional Structure(s))
といった「Physical (物理的)/Cognitive (認知的) な構造 (Structures)」の総体です。
また、その規模/範囲も、
- Local (地域的)/Communal (共同体的) --- National (国家的) --- International (国際的)/Global (世界的)
といったように、様々に分かれます。
(※また、この話題には、
- 地縁
- 血縁
- 組織縁
- 思想縁
といった、集団的/社会的identity (Collective/Social Identity) の問題も、深く絡んでくる訳ですが、それについては、また別の機会に掘り下げたいと思います。)
こうした構造 (Structures) は、
- 「誰かがキッカケを作ったもの」に、「皆が便乗/相乗りする」ことで、強化/成長/発展させられる
という形で、成り立っています。
したがって、上記したような「Ēthos (エートス/人柄) を通じた説得行為」を行う際にも、
- 「対象となる人々が、どのような構造 (Structure) の下に属していて、どのような言動が効果的か」
といったことを、意識しておくことが重要になります。
また、政治的/商業的/文化的に、何らかの「社会活動/社会実践」を行なっていこうとする際にも、何かにつけて「0から構造を作っていく」ことを考えると、大変な労力になってしまうので、「既存の構造を活用する」「既存の構造に便乗する」ことを考えると、無駄な労力を省いて効率的に物事を行なっていけるようになるでしょう。
(※ちなみに、構造 (Structures) に乗っかる際には、そうした構造 (Structures) の「耐用年数」「将来的な変動/方向性」といったものも、併せて意識しておかねばなりません。これはちょうど、経済活動における、「需要の構造/変動」の話とも似たような話です。)
他方で、ただ単に「既存の構造」に適応して生きているだけでは、疲弊してしまうのが人間です。
そこで、PSDのような「構造 (Structures) の将来的な行き着く先」を見据えつつ、そこと思想的につながりながら、そこへと近づけるように、「社会活動/社会実践」を行える者だけが、疲弊せずに、また脱線/迷走せずに、そうした営みを継続し続けていけることになります。
そういった意味でも、やはりPSDのような思想や、それに基づいて結束したplatformは、必要/重要になってきます。
「象徴的image/character/立ち位置/役割 (S-ICPR)」
続いて、後者の「象徴的image/character/立ち位置/役割 (Symbolic Image/Character/Position/Role)」についての話です。
前項のように、構造 (Structures) を意識するだけでは、まだ話は半分だと言えます。
要するに、その構造 (Structures) の中で、
- 「自分」がどのような「image/character/立ち位置/役割」として存在しているか
- そして、どのように「振る舞え」ば、人々から自分が期待している「反応」を、有効に引き出せるか (逆に、どのように「振る舞え」ば、人々から「反感/反発」を買うことになるか)
といったことについての意識/見通しを持つことで、はじめて、上記したような「Ēthos (エートス/人柄) を通じた説得行為」は、有効に機能するようになる訳ですね。
逆に言えば、こうした「自分」の「image/character/立ち位置/役割」についての意識をちゃんと持っていないと、「的外れ/空回り/メチャクチャ/台無し」な振る舞いを、してしまうことになる訳ですね。
なお、こうした「社会構造」の中の「image/character/立ち位置/役割」に対する呼称としては、
- 「社会的image/character/立ち位置/役割」
(Social Image/Character/Position/Role) - 「公共的image/character/立ち位置/役割」
(Public Image/Character/Position/Role)
等も良いですが、
- 「象徴的image/character/立ち位置/役割」
(Symbolic Image/Character/Position/Role)
という呼称が、最も的確と言えるでしょう。
と言うのも、(自分達自身が、他者をどう意識/認識しているか考えれば分かるように) 基本的/一般的に、
- 「1人の人間は、1つの「image/character/立ち位置/役割」でしか、意識/認識されない」
という実態が、あるからです。よっぽど身近な人間でもない限り、我々人間は他者を、「1つの最も象徴的 (Symbolic) なimage/character/立ち位置/役割 (ICPR)」を通して、意識/認識することになる訳です。
(※これは単に、我々人類の「情報処理能力 (の限界)」に由来する問題なので、「善い悪い」という問題ではありませんし、「止めろ」と言って変わるような性格のものでもありません。)
そんな自分の既成の「象徴的image/character/立ち位置/役割 (S-ICPR)」が、気に入らないならば、それを「改革/変更/更新/置換/上書き」できるように振る舞えば良いし、逆に気に入っているのであれば、それを維持できるように振る舞えば良い、ただそれだけの簡単な話です。
ただし、当然のことながら、「自分の性格/考え/思想」と合わない (合致しない/調和しない) ような「image/character/立ち位置/役割 (ICPR)」を、無理に演じようとすれば、人間はstressでおかしくなってしまいますし、そんな調子では、一貫性のあるsustainable (持続的) なものにはなりませんし、たいした社会的成果も、発展性も、継承性も、期待できません。
したがって、それなりに納得/満足しながら、それなりに一貫性/持続性ある形で、「image/character/立ち位置/役割 (ICPR)」を獲得/維持しつつ、社会的成果も生みながら、発展性/継承性もあるものとしてそれを次世代に受け渡していける、そんな充足した人生を送るためには、PSDのような普遍的/究極的かつ現実的な、(時代/環境の変化によって古びてしまうことが無い、そして絶えず発展し続けていける) 「まともな思想/目的論」とつながりながら、それに沿った形で、「image/character/立ち位置/役割 (ICPR)」を形成していくことが、極めて重要になります。
「Frame」「Mode」と「枠外れ」
なお、上記したような「社会構造 (SS)」や、少し前に上述した「Platform(er)」、あるいは個々人の思考/言動でも良いですが、それらを支える「思想(的枠組み)」「認知的枠組み」の部分を「Frame(s)」と表現すると、我々人間がその「Frame(s)」を切り替え/乗り換えながら過ごしている個々の状態は、「Mode」と表現できます。
こうした「Frame」「Mode」の複数性を理解/意識しておくと、能動的にそれを切り替え/使い分けしながら、より「器用」に振る舞えるようになりますし、また、特定の「Frame」「Mode」に嵌り込むことによる「stress」を、調整/軽減できるようにもなります。
また、
- 「複数ある「Frames/Modes」の、どれを優先すべきか」
- 「ある「Frame/Mode」は「穏健/基本」役、別の「Frame/Mode」は「強硬/過激」役、また別の「Frame/Mode」は「脱線/gas抜き」役として活用する」
といった「優先順位」「性格分け/組み合わせ」についての見識/感覚も、深まります。
また、上記した、
- 「特定の「Frame」「Mode」への嵌り込みによる「stress」を、軽減しようとする人間の性質」
を、社会全体に適応して考えれば、
- 「gas抜き」需要への対応 (「main枠」から一時的に外れる/ズレるための娯楽産業) の必要性/重要性。
- 既成の「main枠」が機能していない (社会停滞/硬直化/衰退を招き、それを打破できない) と、皆に思われるようになった時に、既成の枠に囚われない「枠外れ」のmonster (独裁者的な人間) が台頭して来易くなるriskが高まること。
- 上記のriskを回避するために、「main枠」が「究極目的」に向けて妥当/正当に「前進/改革/発展」できる/していることを示しながら、人々の「希望/納得感」を確保していくことの必要性/重要性。
といった様々な認識/教訓も、得ることができるようになります。
「教育」の4本柱 (2本柱)
ちなみに、PSD以外の教育/勉強内容は、基本的に、
- ① Natural Science (自然科学)/Technology (科学技術)
- ② Economy (経済)/Management (経営)
- ③ Law (法律)
- ④ Society (社会)/Politics (政治)
の4本柱として、まとめることができます。
PSDの内容以外では、この4つの分野を押さえておきさえすれば、集団/組織として、道を踏み外して発展が妨げられたり、停滞/衰退してしまったりすることを、回避することができますし、着実に発展と勢力拡大の道を進んでいけるようになります。
なお、言うまでもなく、上記の4分野は、大きく分けて、①と②〜④の2つ (理系と文系、あるいはPhysisとNomos) に大別されます。
したがって、よくある表現を交えて表すのであれば、上記の4本柱は、
- STEM (Science, Technology, Engineering and Mathematics)
- PLEM (Politics, Law, Economics and Management)
の2本柱としても、表現することができます。
また、①は、基本的に、
- Fundamental (基礎)
- ❶ Mathematics (数学)
- ❷ Physics (物理学)
- ❸ Chemistry (化学)
- ❹ Biology (生物学)
- Applied (応用)
- Enginnering (工学)
- Medicine (医学)
- Pharmacy (薬学)
- Psychology (心理学)
- ICT (情報通信技術)
等に、分けることができます。
また、ここでは④のSociety (社会) の中に含んでしまっていますが、
- Language (言語)
- Culture (文化)
- History (歴史)
等に関する知識も、当然のことながら基礎教養として、要請されますし、日本に関しては、「言語/Languageについて」「文化/Cultureについて」で説明されているような、全世界を視野に入れた水準が、要請されます。
そして、こうした諸々の分野をつなぎ、発展を牽引していく思想/platformとして、PSDが存在している訳ですね。
教育/学問に関しても、こうした全体像を踏まえておいてもらいたいと思います。
ちなみに、分かっている人も多いと思いますが、人間の学習/習得といったものは、
- 1. 経験、実体験、実験
- 2. 分解-組み立て (再構築/再編集)
- 3. 移し替え (書き取り)
- 4. 反復、習慣
等を通して、成立しているので、教育においても、当然これらを重視したapproachesが、求められます。
「混葬/合同墓」と「灰装具」
「自分や身近な人間が死んだ後、どのように葬られ、その後どのように扱われるのか」についての予期は、その人の生前の安心感/希望/信頼や人生観/生き様、ひいてはcommunity (共同体) のあり方に直結する問題なので、決して軽視するわけにも曖昧にしておくわけにもいきません。
そこで、ここでそうした事柄についてのPSDの基本方針も、ここに明示しておきたいと思います。
まずPSDでは、葬儀/埋葬に関して、
- 「混葬」(こんそう) : 「MB」(Mixed Burial)
- 「合同墓」(ごうどうぼ) : 「JT」(Joint Tomb)
を、推奨しています。(また管理上、屋外よりは屋内の方が望ましいと考えます。)
これは、要するに、
- 「遺骨/遺灰」を、他の「仲間/同志」の「遺骨/遺灰」と一緒にして混ぜ、埋葬する
ということです。 (※もちろん、既存の「伝統的な墓地」と両立したい場合には、遺骨を半分に分骨して、各々に埋葬するという選択肢もあります。)
墓標やdataとして、誰が埋葬されているかの記録は残しますが、「遺骨/遺灰」は区別無くひとまとめになります。そして新たな「合同墓」を作る際には、その「遺骨/遺灰」の一部を移して「基礎」としますし、逆に「合同墓」を統合する際には、「遺骨/遺灰」をひとまとめにします。
このように、これは非常にsimpleで楽な方法であり、だからこそ、様々な「社会的な環境/条件変化」に耐え続けることができる、sustainable (持続可能) な方法だと言えます。
ちなみに、葬儀などで用いられる追悼表現に関しては、一般的には「霊/冥福/極楽/天国/神/仏」などの用語/概念が用いられがちですが、PSDの思想とはあまり馴染まない面もあるので、PSDでは、
- 「(一足先に) 自然に還る」
- 「残された者たち」「仲間/同志」「記憶/思い出」「継承」「(生ある限りの/人間としての) 使命/義務」「努力/前進/発展」
といった表現が、推奨されます。
更に、残された者たち (PSDの仲間/同志たち) は、そうした「混葬」された「遺骨/遺灰」のごく一部を、
- 「指輪/首輪/腕輪などに詰め、何らかの形で身につけておく」
ことが、推奨されます。
こうした装具を、
- 「灰装具」(はいそうぐ) : 「AA」(Ashes Accessory)
と呼びます。
これによって、
- 仲間/同志であった故人たちの「意志/遺志」と「生」を、継承する/引き継ぐ姿勢
を、示すわけですね。
「遺骨/遺灰」それ自体は、成分的にはただの炭素やcalciumの塊に過ぎません。しかし、
- 「PSDの一員として生き、「混葬」され、「遺骨/遺灰」を残す」
という行為にも、
- 「それを残された者たちが、身につける」
という行為にも、
- 「明確な意志」
が必要であり、それが成立するということは、「それ (意志) がそこに宿っている」ことの、何よりの証明となります。
こうして「遺骨/遺灰」を通して、仲間/同志たちに、後世の者たちに、(development (発展) に向けての)「意志/遺志」が継承されていく、「己の生」が受け継がれていく、だから恐れも孤独も後悔もやり残した感も無い、これがPSDにおける「望ましい生き様/死に様」であり、そうした思いに上記してきたような行為/営みによって応え、「相互作用的/循環的な状態」を生み出し続けていくことが、「望ましい弔い/供養のあり方」だと言えます。
補足
発展暦 (DC)
PSDでは、「発展暦 (DC)」という独自の暦を推奨しています。
詳細は、こちらを参照して下さい。