思想について
人類全体の「思想問題」とは、「Plato-Aristotle-Hegel」といった正統な「目的論/集団的発展主義」の思想の系譜が、産業革命以降の「市場経済の暴走」という状況/環境下で、特に19世紀後半以降、
- ❶ (英米的) 自由民主主義
- ❷ (欧米列強的) 帝国主義
- ❸ (Marx/ソ連的) 社会主義/共産主義
- ❹ (Germany的) 民族社会主義
- ❺ (社会科学的) 分析論
などに飲み込まれ/押し流され、顧みられなくなり、❶と❺ (一部では❸も) が生き残った21世紀に入ってもなお、それが回復されないまま、ここ180年ぐらい「成り行き任せ」の状況が続いており、その結果として、人々は「生きる意味」や「連帯能力」を失い、場当たり的/刹那的な「拝金主義/快楽主義/個人主義」「商業game/cult game/搾取game/人口食い潰しgame」にばかりのめり込み、先進諸国を中心に
- 「極度の少子化と貧富格差に陥るが、政治家も学者も (企業家も宗教家も) 皆、それを改善できない」
という悲惨な (と同時に滑稽な) 状態に陥ってしまっている、という一連の事態を指します。
この問題に対して、SHが提示する解決策は、「Plato-Aristotle-Hegel」といった正統な「目的論/集団的発展主義」を、今日的/将来的な自然科学や社会状況の変化にも耐えられるように修正したPSDを基盤とした、「正しく強固な結束/集団性/共同体性」と「維持/発展/修正能力」 の回復・再生です。
- ◾️おまけ:「見えざる手」の強弱と「集団的発展主義共同体」
ついでに、もう少し掘り下げた内容も、ここで併せて書いておきたいと思います。
まず、話を分かりやすくするために、簡単な分類を行いましょう。
近代の倫理や政治・社会思想は、大きく分けて、
- Platonismを近代的な形で再生・再構築・再利用しようとする流れ
→【(認識論と同様にざっくり言えば) 大陸系/理性主義】 - (Platonism的な「枠組み/構造の先決」を避けて) 現実的・漸進的に論・仕組みを組み立てていく流れ
→【(認識論と同様にざっくり言えば) 英米系/経験主義】
という2つの流れがあり、さらに両者は、
- 集団主義的か
- 個人主義的か
の2つに、ざっくりと分けることもできます。
(※ 厳密に言うと、集団主義と個人主義の境界線は曖昧で、社会主義/共産主義/社会自由主義のように、「建前上の目的は個人主義的 (個人の解放) だが、手段としては集団主義的になる」という場合もありますし、Platonismのように、「個人性 (個体差/適性) や、各人の自由・平等にも配慮した (織り込んだ) 上での集団主義」もあります。)
これらに基づいて、近代の思想家たちをざっくり4分類すると、以下のようになります。
| 非Plato的 | Plato的 (規範的) | |
|---|---|---|
| 集団主義的 |
(Nazism) |
(communitarianism) |
| 個人主義的 |
(libertarianism) |
Kant |
(※ また、これらとは別に、「価値中立」的な、社会科学的分析論や、大陸哲学的構造論などがあったりします。)
そして、この左下の水色の部分が、近代における自由民主主義、市場経済、個人主義を支えてきた思潮で、右上の橙色の部分が、PSDへと繋がるmodern Platonismとも言える思潮となります。
そして、ここでのpointsは何かというと、
- 水色の自由民主主義、市場経済、個人主義 (がもたらす過度の流動性・競争・試行錯誤) が、人類に爆発的な成長・発展をもたらしたことは、疑いようの無い事実であり、この基調は、今後も維持されなくてはならない。
- 他方で、この思想・制度は、その副作用として、極度の少子化と貧富格差、更には共同体崩壊と道徳心喪失や、孤独・疎外を招くという (Platoの民主制批判の頃から指摘されている) 致命的な欠陥・問題を抱えており、「見えざる手 (invisible hand)」という概念に代表される自浄作用・帳尻合わせ機能 (+中道左派的な方向性を欠いた福祉政策) だけでは、この問題を解決できない (解決するには弱過ぎる)。
つまり、自由民主主義、市場経済、個人主義の思想・制度は、それ自体としては (単独では)、sustainable (持続可能) ではない。
(※ もちろん、この思想・制度は、「少子化・貧富格差」や、商業主義・拝金主義の横行による「文化・共同体崩壊や道徳心喪失」、一部の政治家・企業家の利権・巨額利益のための血の通わない大規模組織・制度の歯車・末端として使役・搾取されることによる「精神的疲弊・孤独・疎外」以外にも、方向性を欠いた「乱開発・環境破壊」等、様々な問題も抱えています。
要するに、自由民主主義、市場経済、個人主義のように、個人的・私的・micro的な水準のbottom-up的な利害調整に特化した思想・制度では、「少子化」「温暖化」といった社会・人類の存亡が掛かるようなmacroな問題に対して、修正能力が働きづらい訳です。) - こうした問題を解決するには、(歴史的に否定されている、極右/極左の独裁体制による強制ではなく) 橙色の立場を基調とした、PSDのような、「究極目的の下に結束した、集団的発展主義の共同体」によって、強力かつ妥当な帳尻合わせ機能、言わば「強い見えざる手 (strong invisible hand)」を発揮させて、改善していくしかない。
(※ もちろんこれは、Athenai的な極度の自由民主主義への傾倒も、Persia的な極度の独裁・専制への傾倒も、共に避けつつ、善に基づく共同体的結束と帳尻合わせ機能の発揮を推奨した、Platonismの基調を引き継ぐ発想です。)
といった点です。
再度分かりやすくまとめますと、
- 水色の自由民主主義・個人主義では、「弱い (消極的な) 見えざる手 (weak (negative) invisible hand)」しか発揮できず、「少子化・貧富格差の拡大」「共同体崩壊・道徳心喪失」「孤独・疎外」等の問題を、解決できないので、橙色の集団的発展主義の共同体による「強い (積極的な) 見えざる手 (strong (positive) invisible hand)」で、そこを補完しなくてはならない
ということです。
PSDでは、専ら前者に属する人々を「浮動層」、専ら後者に属する人々を「基盤層」と呼んで区別しますが、この両者の組み合わせ (相互補完) によって、人類全体の環境を維持していかなくてはなりません。
- ◾️おまけ2:「Plato-Hegelの弱点」とPSD
他方で、我々がPlatonismでも、Hegelianismでもなく、PSDという立場を採っていることからも分かってもらえるように、これらPlatoやHegelの思想にも問題があります。
そのことについても、ここで併せて述べておきたいと思います。
細かなことを言い出すとキリが無いですが、これらの思想には、主に2点、問題があります。
まず第1に、これらの思想は、特にPlatoは、方便なのは分かりますが、神話的・occult的な話に頼りすぎです。Hegelですら、世界精神などといったようなoccult的な概念を持ち込んでしまっています。
彼らの集団的発展主義の思想は、そうしたものを持ち込まなくても、それ自体として十分成り立ちますし、歴史的経緯を振り返っても分かるように、こうしたものを中途半端に持ち込むと、自然科学との整合・調和に支障を来たしたり、後世でおかしな集団・勢力に悪用・誤用されて、正道から外れていく原因にもなりがちなので、こうしたものは極力排除し、常に「自然科学に寄り添う」姿勢を、全面に出すことが望ましいと言えます。
(神話的・宗教的概念の使用は、思想的・実践的に支障を来たすことが無いように、せいぜい究極的な原因・実在を神格化したDēmiourgos (デミウルゴス/神) ぐらいに留めておくのが良いでしょう。そういった点は、Aristotleの姿勢を見習う必要があります。)
第2に、PlatoやHegel、あるいはRousseauなんかもそうですが、彼らの思想は、基本的に小規模な国家・共同体を想定しており、人類全体を包摂する意識が希薄です。
しかし、歴史を振り返れば分かるように、またPlato自身もそれなりに自覚的であったように、そうした特定の小規模国家・共同体のみに依拠する (「国」の範囲で自己完結してしまう) 態度では、他国との対立・憎悪・紛争・戦争を延々と煽って政治的権力の源泉にしようとするtypeの政治家・扇動家の術中に、嵌まりやすく (抜け出しにくく) なり、疲弊・堕落しやすくなりますし、また、こうした思想が、近代において自由民主主義に負けてしまったことからも分かるように、「より大規模な・人類大の利益・公益」を主張・実現する思想・勢力に、思想力としても、実力としても、劣って負けてしまいます。(ちなみに、そんな両方の性格を併せ持っているのが、USAですね。)
したがって、集団的発展主義が、近代において (また将来に渡って) 力を持つためには、PSDのように、「究極目的 (全知全能) を共有し、協調・協働できる者は、誰であれ、出自に関係無く仲間・同志」といった具合に、「人類全体に開かれる」必要がありますし、究極目的 (全知全能) から逆算して、「どうすれば、それに向けての人類全体の存続・発展に資するか」という観点から、結束や規範・共同体性の (再)構築・修正を行い続けていく必要があります。
(ちなみに、そうした「人類大の共同体性」を醸成していく上では、言語について、文化についてのpageでも述べているように、「東洋・西洋の壁を越える」ことが可能な、唯一無二の言語的・文化的潜在力を持った日本文明が、資するところ大なので、もうちょっとその力を発揮できるように、頑張って貰わなくてはなりません。)
以上、2点の理由から、なぜPSDが、PlatoやHegelを「集団的発展主義」の思想的起源としつつも、それをそのまま継承せず、こうした名前で、自然科学に寄り添い、また全人類に開かれた思想 (or 宗教) として、再出発する必要があるのかが、理解してもらえたと思います。
- ◾️おまけ3:「AI時代」への対応
更に、昨今のAIの発達に伴って、人類そして人間社会のあり方が、今後一変することが予想されるので、そのことについても、少し述べておきたいと思います。
まず、高度な知的作業が可能なAIおよびそれと連結したAI Robotが普及するということは、従来の人間社会の秩序における「上層の知的労働」と「下層の肉体労働」が、どちらもAIに代替されるということなので、人間社会にとても大きな衝撃・変革をもたらしますし、その影響の大きさ・深さ・範囲の全容を、現時点で予測するは困難な程です。
そもそも従来の人間社会の伝統・慣習とか、倫理とか、宗教といったものも、「上層の知的労働」「下層の肉体労働」を含む社会秩序・分業体制を、いかに形成・維持するか、正当化するか、そういう意図が多分に盛り込まれた/反映されたものであり、それはPlatonismとて例外ではありません。
したがって、そうした分業の多くが要らなくなるとしたら、Marxism風に言えば、「下部構造が変われば、上部構造も変わる」式に、倫理も、社会のあり方も、大きく変わっていかざるを得ません。
ある人は、AIが「哲人王」として君臨し、「軍事」や「肉体労働」の多くも引き受ける、digital Platonismを夢想するでしょうし、またある人は、少し似ていますが、ほとんどの人が労働から解放され、余暇を愉しむだけとなるdigital communismを夢想するでしょう。
(ここにbiotechnologyや医療の発達も加わって、子作り/出産や遺伝子操作が容易になったら、果たして社会はどうなるのか、現時点では、想像も付きません。)
しかし、確実に言えるのは、近い将来、全ての国で、市場・産業や社会・共同体・家族のあり方が、大きく変容するということであり、場合によっては、「混沌」方面にも、「統制」方面にも、両極端に振り切れやすい不安定な状況が生まれ得るということです。
そうした激しく変容し続けていく、伝統・慣習や伝統的倫理・宗教なども通用しなくなってくる社会環境の中で、人間社会を、人類種を、結束させつつ、存続・発展させていくには、PSDのような、究極目的 (全知全能) から逆算して、結束や規範・共同体性の (再)構築・修正を行い続けていける、普遍的・究極的な「目的論の柱」が、ど真ん中に一本、必要になる訳ですね。